「最上義光」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「最上義光」の死に際とは?日本の人物

最上義光は、東北の小さな勢力に過ぎなかった最上家を57万石の大名へと押し上げた人物です。

その晩年と死に様はどのようなものだったのでしょうか。

最上義光とは?

最上義光は、出羽山形藩の初代藩主です。

義光の妹は義姫といい、伊達輝宗に嫁ぎました。

輝宗との間に生まれたのが有名な戦国武将の伊達政宗です。

最上義光は出羽山形城を拠点にし、上杉景勝や甥である伊達政宗たちと争いながら戦国大名の地位を築きます。

天下分け目の戦いといわれる関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍につき、57万石を領することになりました。



最上義光の晩年

最上義光は晩年、自国の領地の安定に力を注ぎます。

居城となっている山形城を改築したり、城下町の整備を積極的に推し進めました。

農業の生産力を高めるために庄内平野に北田て北楯大堰や因幡堰を開削するなど、治水工事も推進しました。

自国民からはとても慕われており、一揆が起こることもほとんどありませんでした。



最上義光を悩ませた後継問題

最上義光の晩年は、後継問題に悩まされる日々でもありました。

義光の嫡男は正室の子・義康ですが、義光との仲は良好とはいえませんでした。

家臣による讒言などもあり、険悪なものとなっていました。

そしてついに、義光は義康を廃嫡にすることを決意します。

次男である家親に後を継がせたかったからと言われています。

義光は義康を出家させることにしますが、その道すがら何者かに襲われ不慮の死を遂げました。

この義康暗殺は義光が仕組んだものとも言われていますが、我が子の死を深く悲しんだという逸話もあり真相は分かっていません。

最上義光の最期

最上義光が亡くなったのは、慶長19年の1月のことです。

その数年前から体調を崩し始め、病がちになっていました。

しかし、亡くなる前年、病を押して江戸に上り将軍である徳川秀忠に謁見しています。

駿府城にいる徳川家康の元へもわざわざ足を運んでおり、今後の最上家の行く末を頼んでいます。

この時、家康はいたく感激し、義光に沢山の見舞いの品や薬を下賜したといいます。

義光は家康に謁見した3か月後に息を引き取りました。

享年は69歳です。

最上義光をめぐる逸話

最上義光は、家督を継ぐ際に父と弟と骨肉の争いを繰り広げています。

その因果は巡るのか、義光の子達も数奇な運命に翻弄されます。

まず、嫡男の義康は父である義光によって廃嫡となり、暗殺されました。

義光の後を継いだ次男の家親も、義光の死から数年後に急死してしまいます。

急な病によるものとも毒殺ともいわれており、死因ははっきりしません。

そして義光の愛娘である駒姫は豊臣秀次の側室となりましたが、秀次の失脚により処刑されてしまいました。

義光の悲嘆は大きく、後に関ヶ原の戦いで豊臣方ではなく徳川方に組する遠因になったともいわれています。

まとめ

最上義光は、一代で57万石の大名にのし上がった人物です。

晩年は自国の安定化に尽力しますが、後継問題という悩みもありました。

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