加藤清正は、豊臣秀吉の小姓から肥後熊本藩の藩主へと立身出世を遂げた戦国武将です。
加藤清正の晩年と最期について紹介します。
加藤清正とは?
加藤清正は豊臣秀吉と縁戚関係にあったことから、秀吉の小姓として仕えました。
本能寺の変が起きると、清正は秀吉に従って様々な戦いに参加しました。
柴田勝家と戦った賤ケ岳の戦いでは、敵将の首を討ち取るなど武功を挙げています。
この功績により秀吉から3000石を与えられました。
文禄・慶長の役では朝鮮に出兵し、鬼将軍と恐れられています。
講和条件をめぐって石田三成とは対立したようです。
その後、秀吉の死によって日本に帰国しました。
加藤清正の晩年
豊臣秀吉が没すると、加藤清正は徳川家康に接近します。
天下分け目の戦いといわれる関ヶ原の戦いでは、家康が率いる東軍に組しています。
このような決断をした背景には、文禄・慶長の役の際に石田三成と対立したことも影響していると考えられます。
九州において西軍の軍勢を次々と破る活躍を見せ、戦後には52万石が与えられました。
その後は、領内の安定に力を注いでいます。
熊本城を築城して城下町を整備したり、新田開発を進めたりもしています。
加藤清正の最期
加藤清正は徳川幕府に服従の姿勢を見せていましたが、その一方で豊臣家を存続させることを希望していました。
豊臣秀頼を説得し、二条城において徳川家康との会見を取り持ちました。
会見を終えて帰国する途中、船の上で突然倒れてしまいます。
そして、熊本に到着すると亡くなりました。
享年50です。
加藤清正の死因
加藤清正の死には、様々な説が唱えられています。
饅頭を使って毒殺されたという説もあれば、性病にかかって亡くなったという説もあります。
加藤清正の毒殺を題材にした池波正太郎の小説「火の国の城」なども登場しました。
また、ハンセン病によって亡くなったという説もあるようです。
しかし、実際のところは脳溢血による死と考えられています。
加藤清正をめぐる逸話
加藤清正というと勇猛果敢な武将として知られますが、豊臣秀吉の元では代官を務め財務官僚のような役職を担っていました。
商業分野においても非常に優れた手腕を発揮しています。
また、築城の名手としても知られ居城であった熊本城は非常に堅牢な城だと有名です。
清正は土木技術に関して有能な家臣を揃えており、その技術は江戸城や名古屋城の石垣などにも活かされています。
また、領内において新田開発をする際には、肥後の四大河川を改修し灌漑用水の便を作るなど功績を残しました。
これにより清正は土木の神様とも呼ばれています。
熊本の基礎を築いたことから、今でも清正は清正公さんと呼ばれ親しまれています。
まとめ
加藤清正は関ヶ原の戦いで功績を上げ、52万石を与えられました。
豊臣秀頼と徳川家康の会見を取り持ち、帰国する途中の船の上で発病します。
そして熊本に到着すると亡くなりました。
享年50です。