「篤姫」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「篤姫」の死に際とは?日本の人物

第13代将軍徳川家定に嫁いだ篤姫は、明治維新の後も徳川家の人間としてその人生を全うします。

篤姫はどのような晩年と最期を迎えたのでしょうか。

篤姫とは?

篤姫は薩摩藩の今和泉家に生まれ、17歳で薩摩藩主である島津斉彬の養女として徳川家に嫁ぎます。

将軍の正室は公家から迎えるというしきたりがあったので、近衛家の娘となり徳川家定の元に嫁ぎました。

しかし、家定は病弱で34歳という若さで急死してしまいます。

二人の結婚生活は2年に満たないものでした。

夫の死を受け落飾して天璋院となります。

その後、倒幕運動の機運が高まり徳川家が窮地に立たされると、徳川家を存続させるために力を尽くします。



篤姫の晩年

篤姫は明治維新後も、故郷の鹿児島へは戻らずに東京の徳川宗家で暮らしていました。

夫である家定が亡くなった時、薩摩藩は篤姫に戻ってくるように促しましたが拒否したといいます。

その後、故郷の地を踏むことはありませんでした。

薩摩藩といえば明治維新の中心となった藩なので、故郷に帰れば優遇されたことは間違いないでしょう。

しかし、篤姫は徳川家の一員という意識が強く、薩摩藩から金銭的な支援を受けることも断ったといいます。

そのため晩年は非常に質素な生活でしたが、大奥にいた頃とは違って自由があるのでその生活を楽しんでいたといいます。

また、徳川家の家名を存続させることができ、篤姫は16代徳川家達の養育を任されます。

厳しいながらもわが子のように愛情深く育て、家達も篤姫を慕っていたといいます。

大奥に縁のある人々の就職を支援したり、縁組をまとめたりもしていました。



篤姫の最期

篤姫は、実の息子のように育てた家達を海外に留学させます。

家達が帰国するまでの間にも、家達に輿入れすることが決まった近衛家の泰子を引き取り徳川家の妻になるべく教育します。

そして明治15年、家達が帰国したことで二人は結婚しました。

その翌年に篤姫は、暮らしていた徳川宗家の屋敷で倒れます。

脳溢血だったといわれており、そのまま意識は回復せず亡くなりました。

享年49で、葬儀には徳川家に縁のある人々が大勢駆け付けたといいます。

篤姫をめぐる逸話

篤姫の夫である家定が亡くなり、その跡を継いだのは紀州藩主だった徳川家茂です。

家茂に嫁いだのは皇女和宮で、篤姫とは姑と嫁という関係でした。

武家と公家の出身ということからそりが合いませんでしたが、徳川幕府が危機を迎えると二人は手を携えて徳川家の存続に尽力しました。

明治維新後にも篤姫と和宮は時々会っていたようです。

まとめ

篤姫は薩摩藩から徳川家に嫁ぎます。

夫である家定との結婚生活は2年に満たないものでしたが、その後も徳川家の人間として生きることを選びました。

明治維新後も故郷には戻らず、薩摩からの金銭支援も断っていたといいます。

そして、徳川宗家を継いだ家達を立派に養育しました。

そして49歳の時に脳溢血で倒れ、帰らぬ人となったのです。

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