「逸見政孝」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「逸見政孝」の死に際とは?日本の人物

局アナからフリーへと人気絶頂期を迎えた彼の死は全国に衝撃を与えた逸見政孝氏の晩年、死に際を解説。

「逸見政孝」とは?簡単に説明

フジテレビの低迷期から視聴率三冠に至るまでの歴史を実際に体験してきたのが逸見政孝氏と言っていいでしょう。

逸見氏に転機が訪れたのは当時の超人気番組「夕焼けニャンニャン」でほぼ平日はレギュラーとして登場した事。

ほんの1分程度「報道センターからの逸見さん」として片岡鶴太郎、とんねるず、吉田照美、当時の若者に人気のMCと絡んで知名度を上げていきました。

その後フリーへ転身すると日本テレビの『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』等で活躍。

80年代後半から90年代前半を代表する司会者の一人と言っていいでしょう。

「逸見政孝」の晩年

局アナは管理職に就いた場合、当然ながら後進の指導やマネジメントが主な業務となり、最前線からは離れる事になります。

逸見氏はこれを嫌い“生涯アナウンサー”を掲げて独立。

1988年3月にフジテレビを円満退社すると「オフィスいっつみい」を設立するのでした。

日本テレビ『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』での「さあーみんなで考えよう」のフレーズや故ジャイアント馬場氏との絡みは人気を集めました。

また古巣フジテレビでは『たけし・逸見の平成教育委員会』も当たり役で評価をあげています。

「逸見政孝」の死に様

逸見氏に暗い影が忍び寄ったのは1993年1月の事でした。

鳩尾に痛みを抱えて前田外科病院を受診。

初期の胃ガンだと診断されます。

ドキュメンタリー番組でガン家系である事を明かし、細心の注意を払っていたと言われただけに寝耳に水の状態だったのは間違いありません。

しかし2月に手術すると既に癌が腹膜にまで転移していた事が判明します。

1ヶ月後に現場復帰するも5月の終わりには再発の兆候が現れました。

腹部に突起物ができますが多忙につき除去手術は8月の盆前になってしまいました。

この2度目の手術では既に手遅れの状態。

当時“セカンド・オピニオン”は言葉が世間に浸透していなかったのに加え、共演者からの紹介のため前田院長に絶大な信頼感を持っていたと言われます。

このため関係者が他の病院での診断を勧めても拒否していました。

しかし再手術の際、院長が自ら執刀を行わず米国休暇へ赴いた事で逸見氏も転院を決断。

同年9月に東京女子医科大学病院での検査とともに即再手術を決定します。

受診から3日後には記者会見を行い「私が今、侵されている病気の名前、病名は、癌です」と衝撃の告白をするのでした。

13時間に渡る大手術であり、予後は良いように思えましたが、1ヶ月後には腸閉塞を発症。

さらには腸への再転移も見つかり、食物の摂取ができなくなった事で衰弱の道を辿ります。

12月25日午後0時47分、癌性悪液質のため死亡、48歳で生涯を終えています。

「逸見政孝」の死に様の信憑性

当時実際にテレビで見ていた視聴者、共演した芸能人が一目で判るほど逸見氏は痩せてしまっており、口にこそ出さないものの重病だと認識していた人がほとんどでしょう。

ワイドショーや週刊誌で取り上げられ、前田外科医、東京女子医大の手術についても賛否両論の意見が挙げられる事となりました。

まとめ

日本航空123便墜落事故を回避した強運の持ち主だと逸見政孝氏は言えるでしょう。

しかし胃ガンには勝てずに48歳でその生涯を閉じています。

しかしスキルス胃癌、セカンド・オピニオンの言葉は彼の死を契機に認知度が広まる事になりました。

逸見氏の死は癌治療における警鐘、大きな役割を果たしたと言っていいでしょう。

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