90年代後半のライオンズを支えた名リリーバー「森慎二」の散り際とは?この記事では森慎二の晩年と散り際について解説していきます。
「森慎二」とは?簡単に説明
1996年ドラフト2位で『西武ライオンズ』に入団。
茶髪で軟派に見える外見とは裏腹に強気のピッチングを見せていたのが印象的。
先発投手としては安定感が無く、幾度として起用されながら結果は残せませんでした。
抑えとしても結果が如実に残せたのは1シーズン。
適役はセットアッパーで最優秀中継ぎ投手を2度獲得しています。
2005年にはポスティングでメジャーリーグへ移籍しますが結果は残せず、メジャーどころかマイナーリーグの公式戦ですら登板できずに終わる屈辱を味わいました。
日本球界へは独立リーグで復帰。
2014年に引退しています。
「森慎二」の晩年
独立リーグ『石川ミリオンスターズ』へ加入後、一度は引退するも2013年に兼任監督で現役復帰。
指導者としてのキャリアを積んで2015年シーズンからは念願叶ってNPB復帰。
古巣の『西武ライオンズ』の2軍投手コーチに就任しています。
翌16シーズンには開幕後不振の投手陣のテコ入れのために、投手コーチ3人制をチームが採用したことで、5月6日に1軍投手コーチを務めることになりました。
主にブルペンで待機「牧田和久」氏ら中継ぎ、リリーバー陣を指導しています。
3年連続Bクラスとなり「田邊徳雄」監督は辞任するも、森氏は翌年も1軍投手コーチとして手腕を振るうことになりました。
「森慎二」の死に様
2017年6月28日12時10分、福岡市内の病院で永眠しています。
42歳没。
死因は多臓器不全によるものでした。
前日の27日に球団から治療で休養することが発表されたばかり、西武ライオンズのみならず、野球界に衝撃を与えるものになりました。
「森慎二」の死に様の信憑性
入院先が福岡市内の理由は『福岡ソフトバンクホークス』戦で遠征のため。
3連戦最終日の試合前6月25日のことでした。
3連戦の最終日のため、本来であればチームを離脱して帰京。
東京で治療を受ける選択が一般的であり、既にこの時点で治療に急を要する状態だったことが予想されます。
27日に「渡辺久信」シニアディレクターが症状不明、復帰の目処はたたないと会見。
それでもこの時点では一般の野球ファンには死に繋がるほど深刻な状態だとは誰一人思っていなかったはずです。
症状の深刻さが明らかになったのは没後のことでした。
福岡遠征中に顔面蒼白で苦しんでいたこと、現役中から不整脈の持病があったことも明らかにされ、心疾患が関連しての多臓器不全だと思われました。
しかし真実が明らかになったのは7月4日の告別式のこと。
森氏の父親が毒性の強い溶連菌の感染による壊死性筋膜炎だと明かしました。
壊死した部位を取り除く手術を受ける前には「行ってくる」と普通に応答ができていたそうです。
最期の会話が福岡に近い故郷山口県在住の父親だったことからも思いもよらぬ急逝だったのは間違いありません。
まとめ
2017年6月28日12時10分に福岡市内の病院で死去しています。
42歳没。
当初の死因は多臓器不全でしたが、告別式で父親が溶連菌感染による壊死性筋膜炎、敗血症だと明かしました。
母親と夫人は手術の場に立ち会えなかったことからも、容態が急激に悪化してしまったのは間違いないと言えるでしょう。