剣豪「柳生宗矩」の父でもある「新陰流」の剣術家「柳生宗厳」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「柳生宗厳」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「柳生宗厳(やぎゅう むねよし/むねとし)」とは?簡単に説明
「柳生宗厳」は剣術の流派のひとつ「新陰流」の剣術家であり、出家後の号である「石舟斎(せきしゅうさい)」としても知られています。
また、息子のうち五男は徳川将軍家の剣術指南役を務めたことで有名な「柳生宗矩(やぎゅう むねのり)」です。
筒井氏に臣従した後、「松永久秀(まつなが ひさひで)」に仕え、この頃に「新陰流」に入門しました。
やがて「豊臣秀吉」が天下を取ると、「太閤検地」の際に所領の柳生庄を没収されてしまいます。
困窮の最中、剣術を評価した「徳川家康」が入門し、徳川家には「宗矩」を仕えさせました。
「柳生宗厳」の晩年と最期
「家康」のほか、同じく豊臣政権五大老である「毛利輝元(もうり てるもと)」にも兵法を指南し、 双方から援助を受けるも柳生家は貧しい生活を送っていたとされています。
「秀吉」の死後も引き続き「輝元」の指南役を務めていましたが、やがて、慶長5年(1600年)に「関ケ原の戦い」が起こり、「家康」と「輝元」は東軍西軍に分かれて敵対することになります。
この時、柳生家は徳川方に与し、戦後に西軍に対する牽制工作や、「宗矩」の本戦での功績が認められたことにより、没収されていた柳生庄を再び与えられました。
そして、慶長11年(1606年)に嫡男「利厳(としとし/としよし)」と五男「宗矩」へ皆伝印可を与えたとされ、同年4月19日に柳生庄にて78年の生涯を閉じました。
「柳生宗厳」の死に様の信憑性
死因については不明で、定かではありません。
「一刀石」にまつわる伝説
奈良県奈良市柳生町にある「天石立神社(あまのいわたてじんじゃ)」には「一刀石(いっとうせき)」と呼ばれる中央から縦一文字に割れた巨大な岩があります。
その昔、「新陰流」の開祖である「上泉信綱(かみいずみ/こういずみ のぶつな)」に敗れた「柳生宗厳」はこの地で3年の間、天狗を相手に剣術修行に励んだそうです。
ある夜、天狗を一刀のもとに斬り伏せたと思ったら、この岩だったと伝えられています。
社会現象にもなった漫画作品「鬼滅の刃」でも鍛錬の最後に主人公が刀で巨大な岩を斬り伏せるというエピソードがあり、この「一刀石」の伝説が元ネタとされています。
まとめ
「柳生宗厳」は剣術の流派のひとつ「新陰流」の剣術家であり、「柳生宗矩」の父親でもあります。
披露した剣術に魅せられた「徳川家康」が入門を希望したと云われ、息子「宗矩」が徳川将軍家の剣術指南役になると共に「新陰流」は広く名を馳せることになりました。
息子たちに印可状を授けた後、慶長11年(1606年)4月19日に享年78歳で死去しました。