「北条氏直」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「北条氏直」の死に際とは?日本の人物

「北条氏直」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「北条氏直」とは?簡単に説明

「北条氏政」、母「武田信玄公」の娘、義理の父「今川氏真」、嫁は「徳川家康」の娘の「督姫」、歴史のロマンを感じる良血の武将、それが「北条氏直」です。

創作物では父氏政や叔父の「北条氏照」ら強硬派に振り回される当主として描かれていますが、その実「滝川一益」を敗走させ、「徳川家康」と対陣し戦いを繰り広げ、全く武功に優れていないわけではありません。

しかし「豊臣秀吉」の小田原征伐では籠城して、抵抗を試みるも敵わず降伏。

高野山で蟄居するも数ヶ月で許され、再出発を切ることになりました。



「北条氏直」の晩年

高野山に蟄居することになった氏直、督姫と女房衆こそ小田原に残すことになりましたが、家臣30名以上、所縁のものを含めて300人以上で三週間かけて高野山へ移動し、北条氏の塔頭である「高室院」に隠ることになりました。

年があけると家康に口利きを依頼、なんと2月には赦免が通知され、その後は順調に復活への道が開かれていきます。

「板部岡江雪斎」が赦免に尽力していたこともあるのでしょうか、「織田信雄」の改易に携わっており、高野山から下った後は大坂の信雄邸での再出発をきっています。

8月には秀吉と謁見、赦免され分国ですが河内・関東に合計知行一万石を与えられるのでした。



「北条氏直」の死に様

秀吉との面会で赦免と知行を与えられ、氏直は気力を取り戻し、精力的に活動します。

女房衆と督姫も大坂を早々に訪れ、氏直は復活への道を順調に歩んでいました。

半年程度とはいえ、高野山で300人と例を見ない規模で蟄居生活を過ごした事後処理に追われますが、神仏への祈祷、心添え、借用金の返済について的確に書状で指示を出していきます。

しかし好事魔多し、氏直は10月下旬に天然痘に罹患してしまい、回復のために祈祷を行うも重篤な状態に陥ってしまいます。

その後天正19年11月4日にその生涯を終えています、享年30歳のことでした。

「北条氏直」の死に様の信憑性

興福寺多聞院「英俊」による第一次資料「多聞院日記」の37巻に記載があります。

「相州保(北)条氏直在大阪ニ、近日疱瘡煩フ、祈祷也ト云々、遂ニ死去云々、」天正19年の出来事に記載されており、信憑性は高いといえるでしょう。

まとめ

豊臣秀吉も家康の婿であるがゆえ、配慮が感じられ、とりあえず世間に向けてへの蟄居という面は強く感じられました。

秀吉は衣服や食料について差し入れしており、追放で困窮した武将とは比べものになりません。

さらには厳冬期には寒さの和らぐ場所へと移動許可も出しています。

ことさら家康の存在は大きく、氏直の高野山入りには徳川四天王の「榊原康政」を同行させるなど、婿と娘への配慮が感じられました。

疱瘡は症状が軽減しないと10日前後で亡くなることも多いため急死だったのでしょう。

亡くなる二週間前の日付の書状が確認されています。

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