裏切りと謀略の連続は死後に影響?「津軽為信」の最期とは? この記事では津軽為信の死に際、そして晩年について解説していきます。
「津軽為信」とは?簡単に説明
「津軽為信」は元々は「大浦為信」を名乗っており、南部家に臣従していましたが、「大浦為信の乱」で下剋上を遂げた武将です。
端的に言えば裏切りや謀略を駆使して野望を遂げた人物と言っていいでしょう。
隣国に南部家、強国があり騎馬隊は屈強で有名でしたから武力以外の方法で台頭するには致し方なかったのかもしれません。
謀略が得意な武将ではありがちですが、晩年になり影響力が落ちてくると、若かりし頃の報いを受けるかの如く御家騒動が起きるのが世の常。
津軽家もまた例外ではありませんでした。
「津軽為信」の晩年
「近衛前久」の猶子となり「豊臣秀吉」と義兄弟になったことで豊臣政権下では功績を残した為信ですが、関ヶ原では親子で陣を隔てることとなりました。
為信と三男・「津軽信枚」は東軍に嫡男・「津軽信建」は「豊臣秀頼」の小姓であったがゆえに西軍で参戦しています。
論功行賞では飛び地となる上野国大舘2000石の加増でしたが、嫡男の信建は許され名代として活躍、後継として確立したため総じて上手く立ち回ったと言えるでしょう。
1603年には後の世で「日本七名城の一つ」とも言われる弘前城の着工に取りかかっています。
弘前城の着工は元々は御家・家中騒動で居城堀越城が度々占拠される事への対策でした。
関ヶ原に出陣中にも占拠されており、為信の晩年から没後しばしば津軽領は御家騒動に悩まされることになります。
「津軽為信」の死に様
嫡男の「津軽信建」が病に臥せたため、これを見舞いに三男の「津軽信枚」ともに京都を訪れます。
しかし為信が到着する前の1607年12月2日に信建は亡くなってしまいました。
為信も既に病に罹患している状態で京都を訪れており、長旅が堪えたのかほぼ2ヶ月後の1608年1月22日に現地でその生涯を閉じています。
享年58、その後弘前市華秀寺に葬られています。
「津軽為信」の死に様の信憑性
津軽家の治めた弘前藩は「弘前藩庁日記」を1661年から記録していますが、それ以前の藩医や医療については信頼できる史料が残っていません。
このため根強くある信建の主治医に診療してもらうために京都を訪れた説の信憑性に関しては何とも言えないところです。
為信は近衛前久とは猶子の関係でしたし、信建・信堅・信枚は1596年には京都に滞在しキリスト教の洗礼を受けています。
典薬寮の医師からも診察が受けられ、名医「曲直瀬玄朔」もまだ京都在住で最先端の治療を京都で治療を受けたいと思ってもなんら不思議ではないでしょう。
まとめ
津軽為信は病をおして京都へ嫡男の見舞いに向かったが、到着前に信建は亡くなり本人もあと追うように約50日後に亡くなっています。
キリシタンの洗礼を受けた理由の一つは南部氏の怨霊に悩まされていたからだと言われ晩年はストレスを抱えた生活だったようです。
関ヶ原参陣中に堀越城が占拠されたのをはじめ、晩年たびたび御家騒動が起きました。
これは前奏曲に過ぎず、為信の没後は津軽騒動をはじめ、高坂蔵人の乱、船橋騒動、正保の騒動と続いていくのでした。