「忌野清志郎」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「忌野清志郎」の死に際とは?日本の人物

忌野清志郎の本当の死因は?

「忌野清志郎」とは?簡単に説明

昭和26年、東京都中野区で、本名「栗原清志」として誕生した忌野清志郎は、「ザ・キング・オブ・ロック」という異名で呼ばれるほどの日本を代表するロックミュージシャンです。

1968年には、自身を中心としたロックバンドである「RCサクセション」を結成し、1980年代を中心に数多くのファンを虜にしていきます。

この珍しい「忌野」という芸名は、テレビアニメ「マイティ・ハーキュリー」に登場した「あの忌まわしい鉄仮面」というセリフからインスピレーションを得て命名した名前ですが、実際には日本に「忌野」という苗字は実在していないと言います。

バンド結成後、長期間にわたり低迷していましたが、1978年頃からライブハウスなどを中心に少しずつ人気が出始め、このころからデヴィッド・ボウイやミック・ジャガーなどの影響でメイクをし始め、清志郎の代名詞ともいえる奇抜なルックスが完成されていきます。

1988年には別名義のバンドであるザ・タイマーズを結成し、4人のメンバー全員で、土木作業員風の衣装に身を包み、全共闘学生運動を思わせるヘルメットやマスクを付けて、体制や権威をおちょくるような風刺的な曲で異彩を放ち始めます。

全盛期を迎えた清志郎は、バンドからソロ活動まで精力的にこなしていきますが、2006年に喉頭癌を患い、2009年5月2日に58歳で死亡してしまいます。



「忌野清志郎」の死に様

忌野清志郎が亡くなった直接の原因となった病名は「ガン性リンパ管症」です。

喉頭がんが発覚する数年前に禁煙をはじめていた清志郎でしたが、それ以前は1日に30本以上も喫煙するヘビースモーカーでした。

亡くなる3年ほど前から喉頭ガンを発症していた清志郎は、癌を摘出をしてしまうと声が出なくなると宣告されたため、シンガーとして歌えなくなるということを恐れ、通常医療とは異なる代替療法という治療法を選択しています。

この代替療法が功を奏し、2008年2月日本武道館にて「忌野清志郎 完全復活祭」というコンサートを開催し、歌手活動を再開しますが、同年7月に癌が左腸骨へ転移し、再びライブ活動を休止することを余儀なくされてしまいます。

この時期、病院に通院し治療を行いながらも、他のシンガーへ楽曲を提供したり、旧知のミュージシャンのレコーディングやライブにゲスト出演するなど、精力的に活動を続けています。

翌2009年2月、体調の悪化によりすべての予定をキャンセルした清志郎は、5月2日の午前0時51分に癌性リンパ管症のために58歳で生涯を終えることになります。



「忌野清志郎」の死に様の信憑性

忌野清志郎が声を失うことを恐れて実際に選択した代替療法は、肉を食べずに玄米と野菜を中心にした食事法である「玄米菜食法」でした。

もし代替療法を選択せず、声と引き換えに手術でのガン摘出を選択していたとすれば、亡くならずに済んだ可能性もあります。

しかしながら、もし現代医学的な治療計画を進めていれば、まずは胃に穴を開けて流動食生活を始め、これに伴い唾液腺は消滅してしまうため、唾液がまったく出なくなってステージで歌うのは絶望的であると診断されていました。

歌手にとって声を奪われ歌えなくなることは、全てを失う死に等しいといっても過言ではなく、清志郎は歌手として生涯を生き抜くことを決意し、代替療法を選択したのです。

患者にストレスを与えずメンタル面でのケアを優先した治療法である代替療法は、清志郎から声を奪わなかった代わりに、最終的には命を奪ってしまったのかもしれません。

「忌野清志郎」の小ネタ等

忌野清志郎率いる「RCサクセション」が、覆面バンド「ザ・タイマーズ」として、1989年10月14日にフジテレビ系の音楽番組『ヒットスタジオR&N』に出演します。

この日のリハーサルでは、予定通りヒット曲である「デイ・ドリーム・ビリーバー」を含む5曲を演奏していましたが、本番の生放送では、司会者や関係者などにはまったく伝えずに、勝手に演奏曲を変更し、FM東京を罵倒する未発表の楽曲にすり替えて歌い上げたのです。

全国ネットの生中継にもかかわらず、以前自身の楽曲を放送禁止にされた恨みを歌に代えて果たすことに成功した「ザ・タイマーズ」は、これを機にさらに名前が知れ渡ることになりました。

まとめ

忌野清志郎が亡くなってから既に10年以上が経過していますが、彼とバンドのメンバーたちが残したインパクトの強い軌跡は、未だに色褪せておらず、ユーチューブなどでは数多くの視聴者に感銘を与え続けています。

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