「宮本武蔵」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「宮本武蔵」の死に際とは?日本の人物

「巌流島の決闘」「五輪書」の執筆者としても有名な生涯無敗を誇る剣豪「宮本武蔵」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「宮本武蔵」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「宮本武蔵(みやもと むさし) 」とは?簡単に説明

「宮本武蔵」は剣術家、兵法家であり、大太刀と小太刀の二刀を使う「二天一流」の開祖である人物です。

「五輪書」によれば13歳で初めて決闘を行い、以後29歳までの間に約60にも及ぶ決闘に挑みますが、全戦全勝したことから現代では「剣聖」とも呼ばれています。

「関ケ原の戦い」では徳川方東軍として「黒田長政(くろだ ながまさ)」に従軍しました。

一方で、父が新免氏という説から、新免氏が宇喜多家家臣であったことから石田方西軍として参加した説もあるようです。

「大阪の陣」では、徳川家臣の与力として参戦しています。

「宮本武蔵 」の晩年と最期

寛永15年(1638年)に「島原の乱」が起こると、後見として参加します。

寛永17年(1640年)に熊本藩主「細川忠利」に招かれ、千葉城の屋敷を与えられました。

熊本では、門下に入った多くの藩士たちを指導する傍ら、鷹狩りや工芸に興じ、寛永20年(1643年)には洞窟にて、有名な「五輪書」の執筆を開始します。

そして、正保2年(1645年)5月19日(6月13日)、千葉城にて享年62歳で死去しました。

「宮本武蔵 」の死に様の信憑性

死因については定かとなっていませんが、老衰とも病死とも言われているようです。

病死についてはガンや肺ガンだったのではないかとする説があります。

謎多き巌流島の決闘

「宮本武蔵」の決闘の中でも、最も有名なものが「佐々木小次郎(岩流と名乗っていた兵法家とも言われる)」と対決した「巌流島の決闘」です。

しかし、この「巌流島の決闘」に関しては、確証となる史実が乏しく、後世の創作である可能性も指摘されています。

三尺の野太刀を携えた「佐々木小次郎」「宮本武蔵」が木刀で倒したというのが俗説です。

決闘の約束時間に「宮本武蔵」はわざと遅刻して、「小次郎」をイラ立たせる心理戦を仕掛けたというエピソードも有名ですが、こちらは後世の創作です。

また、著作によっては「宮本武蔵」は1対1の約束を破り、弟子を引き連れてきたともされ、「小次郎」は弟子たちの加勢を承知で決闘した末に敗れたとも、1対1での決闘後に息を吹き返した「小次郎」を弟子たちが撲殺したとも様々な記述がされています。

まとめ

「宮本武蔵」は剣術家であり、「二天一流」の開祖である人物です。

また、兵法家としての側面もあり、有名な「五輪書」を執筆しました。

「五輪書」は後に英語にも翻訳され、世界で読まれることになります。

晩年は、客分として迎えられた熊本で過ごし、正保2年(1645年)5月19日(6月13日)、享年62歳で死去しました。

死因については老衰ともガンや肺ガンであったとも言われていますが、定かではありません。

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