関東に覇を唱える後北条氏と生涯をかけて戦った戦国大名「里見義堯」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「里見義堯」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「里見義堯(さとみ よしたか)」とは?簡単に説明
「里見義堯」とは、安房里美氏5代目当主であり、安房国(現在の千葉県南部)を治めていた戦国大名です。
内紛で父「実堯(さねたか)」を当主に殺された後、「北条氏綱(ほうじょう うじつな)」の力を借りてクーデターを決行、里美氏の家督を奪い取りました。
その後、真里谷氏の家督争いを機に、「氏綱」の後北条氏と対立することになります。
この後北条氏と「里見義堯」は、後に生涯をかけて戦いを繰り広げていくことになっていくのです。
一方で、上総から下総へ勢力圏の拡大に努め、里美氏における最盛期を築くことに成功しました。
「里見義堯」の晩年と最期
永禄5年(1562年)に家督を嫡男「義弘(よしひろ)」に継がせ、自身は出家するも、実権を掌握した状態で隠居へと入りました。
永禄7年(1564年)では、「第二次国府台合戦」で後北条軍と戦うも、結果的に敗北してしまいます。
これにより、上総領の大半を奪われてしまい、里美氏は本拠地の安房までの撤退を余儀なくされてしまうのでした。
しかし、永禄10年(1567年)の「三船山合戦」で後北条軍を打ち破ったことにより、上総から下総まで勢力を拡大することに成功します。
そして、天正2年(1574年)6月1日、久留里城にて、享年68歳で死去しました。
「里見義堯」の死に様の信憑性
死因については不明で、定かではありません。
「里見義堯」にまつわるエピソード
最後に「里見義堯」にまつわるエピソードをご紹介します。
「里見義堯」という名について
「義堯」の「堯」という字は、古代中国において、太陽神とも考えられている中国神話の君主「堯(ぎょう)」に由来しています。
ちなみに、息子にも同じく中国神話に登場する君主「舜」から「義舜」(=義弘)と名付けています。
後北条氏に対する執念
「里見義堯」は僧侶の「日我(にちが)」を崇敬していました。
そこで、相模の獅子の異名で知られる「北条氏康」は、「日我」を介して和議を「里見義堯」へ申し出るも、「里見義堯」は尊敬する「日我」の申し出であろうと、それだけは受け入れられないと返したそうです。
宿敵・後北条氏にも評価される「里見義堯」
後北条氏にまつわる著作「北条五代記」には、「里見義堯」に対して「仁者必ず勇あり」と記されています。
このことから、敵対関係にありながらも「里見義堯」のことを後北条氏は評価していたことが覗えます。
まとめ
「里見義堯」は、安房国を治めていた戦国大名です。
同じく関東で勢力を拡大していた後北条氏と幾度となく覇権を争い、戦いを繰り広げました。
一時は、里美氏における最盛期を築くまでに至りますが、天正2年(1574年)の6月1日に久留里城にて死去します。
享年68歳であり、死因については不詳となっています。