「渡邊昇」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「渡邊昇」の死に際とは?日本の人物

渡邊昇は幕末に結ばれた薩長同盟において、坂本龍馬に協力した人物です。

渡邊昇の晩年と最期について紹介します。

渡邊昇とは?

渡邊昇は、大村藩士であった渡邊巖の次男として誕生します。

1858年に江戸藩邸に勤めることになった父に従い江戸へ出ると、桂小五郎と知り合います。

桂小五郎の勧めにより、剣術道場の練兵館に入門しました。

そして、尊王攘夷思想に傾倒するようになります。

大村藩に帰藩すると、尊攘派の志士による三十七士同盟を結成しました。

坂本龍馬と会談し、薩長同盟の必要性を説かれた渡邊は、長州藩の説得に尽力します。

長崎で長州藩と坂本龍馬を引き合わせたのも渡邊昇でした。

渡邊昇の晩年

渡邊昇は明治維新後、長崎裁判所諸郡取調掛や待詔局主事、弾正台大忠といった役職を歴任します。

浦上四番崩れと呼ばれる大規模な隠れキリシタン摘発事件にも関わりました。

その後、盛岡県権知事や大阪府知事といった役職にも就いています。

1880年には元老院議官に就任し、1884年には初代会計検査院長となりました。

1887年には子爵となり、1904年から1911年まで貴族院子爵議員を務めています。

渡邊昇の最期

渡邊昇は、1913年に76歳で亡くなっています。

詳しい死因などは分かりませんが、76歳という年齢を考えると病死であったことが推測されます。

渡邊昇をめぐる逸話

渡邊昇は、日本を代表する剣客の一人でもありました。

身長は180㎝もあり、4尺3寸ある長い竹刀を構えた姿は圧巻だったといいいます。

練兵館時代には、桂小五郎と共に練兵館の双璧と呼ばれていました。

渡邊昇は尊王攘夷派の志士でしたが、幕府を守る新選組の近藤勇とも剣を通して交流があったといいます。

倒幕運動に加担していた時には、新選組の隊士を斬ったこともあったようです。

渡邊昇と剣道

渡邊昇は、剣道の普及にも力を注いでいます。

1898年には、発起人の一人となって武道の振興や教育を目的とする大日本武徳会の結成にも携わりました。

大日本武徳会の議員も務めています。

1902年には大日本武徳会から県道師範号を授与されました。

会員を獲得するために全国をめぐったり、日本剣道形の前身となる大日本武徳会剣術形を制定するなど剣道を広めるために尽力しました。

東京の麻布にあった家でも剣道道場を開き、指導を行っています。

ただし、幕末には尊王攘夷や倒幕運動に関わる中で沢山人を斬って殺しており、そのことに苦しめられることもあったといいます。

敵の亡霊が夢になって現れたといいますから、ずっと罪悪感を抱いていたのかもしれません。

まとめ

渡邊昇は大村藩士として、尊王攘夷や倒幕運動に積極的に関わりました。

坂本龍馬に協力し、薩長同盟の成立に尽力した人物でもあります。

晩年は子爵として貴族院の議員を務めました。

また、日本を代表する剣客の一人でもあり、剣道の普及にも尽力しています。

そして76歳で亡くなりました。

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