デウスに見放された?「大友宗麟」の晩年とは?
この記事では大友宗麟の死に際、そして晩年について解説していきます。
「大友宗麟」とは?簡単に説明
大友宗麟は表裏一体の評価をされる人物で、辛口の日本史を編纂した「ルイス・フロイス」ら宣教師達からは神仏を敵に回し戦う覚悟のある偉大な人物、福祉国家の建設musicaを目指していたと評価をうけたキリシタン大名でした。
カトリックの洗礼を受けた故に宣教師からの評価は高くなりましたが、国内では真逆の評価をされることになります。
色情魔で臣下の妻に手を出したり、暗愚で優秀な家臣団に支えられているだけ、それを証拠に家中での内紛が絶えず心労は絶えなかったようです。
「大友宗麟」の晩年
既に「織田信長」にはいち早く恭順しており、中国攻めの際には西から毛利領に攻めこむ代わりに島津氏との戦いには織田勢が参戦する予定でしたが、本能寺の変によりこの案は藻屑と化してしまいました。
その後も島津氏との争いは絶えず、さらには龍造寺隆信の台頭を許してしまいます。
このたま病身をおして1586年春に宗麟は羽柴秀吉に救助を要請します。
しかし「仙石秀久」「長宗我部元親、信親親子」「十河存保」の四国勢は戸次川の戦いで大敗、このため秀吉本隊が来るまで島津氏の脅威に晒されることとなってしまいます。
辛うじて島津氏の攻勢を堪え忍んだ宗麟は幾度となく秀吉に救援要請をおくっており、これが功を奏したのは翌1587年になってからのことでした。
先行した宇喜多秀家、羽柴秀長隊に加え、春には秀吉本隊が九州に入ったことで形勢は逆転したものの、宗麟は病に倒れてしまいます。
「大友宗麟」の死に様
もともと1586年に病身で大坂に向かっており、それが悪化した可能性もありますが、現在有力なのは腸チフスに感染した説が強いと言われています。
また亡くなる時にはカトリックの教えを守って祈りを捧げながら息を引き取ったとも伝えられていました。
享年58。
「大友宗麟」の死に様の信憑性
腸チフスなのかパラチフスなのかは明確ではありませんが有力とされています。
ペストと書かれた文献もありますがペストが日本に入ってくるのはこの200年先の1899年になるためこれは否定していいはずです。
息子の義統はカトリックと仏教で度々改宗していたこともあり、宗麟はキリスト教式の葬儀で葬られた後、さらに仏式の葬儀をし直し、墓も仏式に変更するなど、死してなおゴタゴタに巻き込まれることになるのでした。
まとめ
島津氏の侵略を斥けるのは宗麟にとっては10年来の目標ではありました。
しかし神に見放されたのか、それを見ることは叶いませんでした。
しかし既に晩年は島津氏の侵略と家中騒動の懸念、そして近臣、重臣を次々に失ったことで既に国を統治する意欲はなかったとも言われています。
莫大な利益を挙げる南蛮貿易の“利”の部分を欲して洗礼を受けた宗麟でしたが、最期は熱心な信者として祈りを続けながら天に召されることとなりました。