「海原しおり(うなばらしおり)」とは?
海原しおりの晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「海原しおり」とは?簡単に説明
海原しおりは本名を網谷しおりといい、鹿児島県出身。
1978年に海原さおり(本名は弥永日呂子)と「花の110番しおり・ひろこ」というコンビ名で漫才師デビューしますが翌年、「海原さおり・しおり」にコンビ名を改名しています。
人気・実力を兼ね備えた本格的なしゃべくり女性漫才コンビとして知られています。
「海原しおり」の晩年
海原しおりは1987年に元競艇選手の網谷茂と結婚し、3人の子供をもうけています。
ただし、第一子は生後ほどなく亡くなっており、網谷とも2005年に離婚しています。
しおりは芸能活動以外に豊中市で和食店を経営しており、夫の網谷が経営を、すし職人であるしおりの実兄が厨房を仕切っていましたが、離婚後はしおり自身が調理師免許を取得して厨房に入っていました。
ただしその後闘病生活に入ったため、2012年8月16日付けで閉店しています。
それから後は復帰に向けて晩年は治療に専念していました。
「海原しおり」の死に様
海原しおりは2014年1月3日午前8時33分に入院先の大阪府豊中市の協和会千里中央病院で脳腫瘍のため亡くなりました。
58歳でした。
しおりは2012年7月上旬、なんばグランド花月(NGK)に出演後、めまいのような症状に襲われ、兵庫県内の病院に入院します。
そこで早期の脳腫瘍と診断されたしおりは、同年8月27日から大阪府内の病院に再入院し、同29日には脳腫瘍の手術を受けています。
術後の経過は良好で、副作用もほぼなく、その後は長期休養をして定期的に通院し、脳神経外科医の専門医と再発防止のための治療に取り組み、舞台復帰を目指していました。
しかし、2013年12月下旬に体調を崩して再入院となります。
そして年明けの2014年1月2日に容体が急変し、意識がなくなって翌3日に帰らぬ人となりました。
最期は2日から病室に駆け付けた相方のさおりや親族に看取られています。
「海原しおり」の死に様の信憑性
2012年7月のNGKが最後の舞台となった海原さおり・しおりですが、それ以降の約2年半にわたる闘病生活は関係者には明白で、亡くなったのも病院内ということですので死に様の信憑性は高いと言えます。
また、しおりの死去に伴って相方のさおりは所属事務所を通して気持ちの整理がつかないということと、本当に残念な気持ちと相方に対する感謝の気持ちをコメントしています。
まとめ
海原さおり・しおりは美人漫才コンビの先駆けであり、2人とも結婚した後は主婦漫才コンビとして活動の幅を広げていました。
人気だけではなく、各種コンクールの受賞歴もある実力派のしゃべくり女性漫才コンビとしても知られていました。