「五代友厚(ごだいともあつ)」とは?
五代友厚の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「五代友厚」とは?簡単に説明
五代友厚は1836年(天保6年)に薩摩国鹿児島城下で誕生しています。
薩摩藩士の家に生まれ、藩のさまざまな官職を務めますが、明治2年に官を辞し野に下り、実業家として大阪経済の発展に寄与します。
「東の渋沢、西の五代」と言われるように、渋沢栄一と並ぶ日本経済の立役者です。
「五代友厚」の晩年
若い頃から多忙を極めた五代は高血圧性心臓病を発症していました。
さらに晩年の五代は糖尿病が進行した状態で苦しんでいたようです。
このような状態の中で五代にとって最後の大仕事となるのが日本郵船会社の斡旋です。
当時、日本の海運業を牛耳っていたのは、外国の海運会社を排除した岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社でした。
これに対抗すべく渋沢栄一らは共同運輸会社を立ち上げ対抗します。
これにより、三菱の独占体制は崩れますが、両社は熾烈なダンピング競争に入ってしまいます。
これを憂慮した政府は両社の合併を画策し、それに尽力するのが五代でした。
この仲介は困難を極めますが、1885年(明治18年)9月に両社は合併し日本郵船会社が誕生します。
しかし、これに安心したのか、創立命令書が出た4日前に五代は息引き取ります。
「五代友厚」の死に様
五代は1885年(明治18年)9月25日午後1時に東京・築地の別邸で亡くなっています。
享年49歳。
死因は糖尿病と言われています。
ただし、作家の高橋直樹さんの小説「五代友厚~蒼海(うみ)を越えた異端児~」によると、五代はお酒の飲み過ぎによる多臓器不全とのことです。
なお、五代は亡くなる直前まで精力的に仕事をしていたそうです。
「五代友厚」の死に様の信憑性
五代が亡くなった9月25日に東京・別邸の住人である岩瀬公圃から出された「五代友厚死亡通知」により、五代がこの日、病気のため逝去したことが分かります。
また「葬式行列」により、1885年(明治18年)10月2日、葬儀は大阪で執り行われたこと、さらに行程として「正午12時30分、中之島の本邸の門前を東へ、淀屋橋南詰を東へ、心斎橋筋南へ、高麗橋通りを東へ、堺筋を南へ、住吉街道より東へ、そして天王寺埋葬地(阿倍野墓地)へ」と記されています。
なお、ここに記載の中之島の本邸とは五代が亡くなる8ヶ月前に大阪中之島淀屋橋近くに建設した新築の家のことです。
まとめ
五代は死後、当時のお金で百万円という莫大な借金を抱えていたことが判明します。
五代の才覚を持ってすれば相当の財を成すこともできたでしょうが、彼には私利私欲が無く、日本経済のために身を捧げた高潔な人物だったようです。