「池田元助」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「池田元助」の死に際とは?日本の人物

戦国武将の「池田元助」とは、どのような歴史上の人物なのでしょうか?

おおまかな人生のあらましを簡単に解説して、その晩年・死に様について詳しく紹介していきます。

「池田元助」とは?簡単に説明

「池田元助(いけだもとすけ,1559/1564年~1584年)」とは、池田恒興の長男で、父の恒興と共に織田信長・豊臣秀吉に献身的に仕えました。

池田元助は天正8年(1580年)の「荒木村重の乱」における「花隈城の戦い」で、敵方の荒木元清を討ち取り、信長から賞賛されています。

天正9年(1581年)2月28日に信長が開催した「京都馬揃え」に父・恒興と参加した後は、独立して池田氏の大将格の武将になりました。

本能寺の変で信長が死去すると、父と一緒に秀吉に味方して「山崎の戦い」で明智光秀を攻めました。

清洲会議後は元助は伊丹城城主、賤ヶ岳の戦いでは岐阜城城主となり、さらに秀吉方について勢力を強めました。

そして、運命の「小牧・長久手の戦い(1584年)」を迎えたのです。



「池田元助」の晩年

清洲会議(1582年)によって、池田家は「大坂・兵庫・尼崎」の12万石を割り振られて、恒興が大坂、長男・元助が伊丹城、次男・輝政が尼崎城を拠点にしました。

柴田勝家を滅ぼす「賤ヶ岳の戦い(1583年)」までは織田信雄・豊臣秀吉に従いましたが、秀吉が信雄と訣別すると、池田元助ら池田氏は秀吉に味方することになりました。

豊臣秀吉の勢力と織田信雄・徳川家康の連合軍が衝突する「小牧・長久手の戦い」が、天正12年(1584年)3月に火蓋を切りました。

秀吉方について池田氏は犬山城を占拠するも、「羽黒の戦い」で森長可(もりながよし)と共に敗戦しました。

この敗北の屈辱を晴らすため、池田恒興・元助ら・森長可は秀吉に奇襲作戦の許可を願い出て、4月6日から行軍を始めます。

運命の4月9日、岩崎城こそ占領したものの、徳川家康・織田信雄・井伊直政の強力な軍勢と「長久手の戦い」で衝突して池田恒興・元助の親子は死地に追い込まれたのです。



「池田元助」の死に様

「池田元助」は天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」において、徳川家康3,300人(右翼)、井伊直政勢3,000人+織田信雄勢3,000人(左翼)の攻撃を受け、最初は互角の戦闘を行っていました。

池田氏の軍勢は、池田元助・輝政4,000人(右翼)、森長可3,000人(左翼)、池田恒興2,000人(後詰め)の布陣でした。

しかし、森長可が鉄砲で撃たれて戦死すると一気に不利な戦況に変わり、父・池田恒興が永井直勝に槍で討たれ、長男・池田元助も安藤直次に討たれて死去しました。

「池田元助」の死に様の信憑性

「池田元助」「小牧・長久手の戦い」で敵将の安藤直次に討たれて戦死したことは史実であり、その死に様の信憑性は高いと言えるでしょう。

実際、「小牧・長久手の戦い」で池田恒興・元助の父子が死去したため、嫡男だった池田元助に代わって、次男の池田輝政が家督を継いでいます。

享年は通説として26歳とされますが、「信長公記」の記述から20代前半とする説もあります。

まとめ

「池田元助」の大まかな人生の流れと晩年・死に様について分かりやすく解説しましたがいかがでしたか?

「池田元助」「小牧・長久手の戦い」で敵将に討ち取られて死去しました。

「池田元助」の死に様について詳しく調べたいときは、この記事の解説を参考にしてみてください。

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