「大久保利通」に次ぐ傑物?
「西郷隆盛」と共に尊王攘夷を志し、共に「西南戦争」を戦った「村田新八」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「村田新八」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「村田新八(むらた しんぱち)」とは?簡単に説明
「村田新八」は薩摩藩に生まれ、後に尊攘の志士として活動しました。
「維新の三傑」の2人である「西郷隆盛」と「大久保利通」も所属していた「精忠組」に名前が残っています。
しかし、薩摩藩で実権を握っていた「島津久光」は加熱する尊王攘夷活動を危険視しており、後に「村田新八」は喜界島へ流刑となりました。
やがて、同じく流刑に処されていた「西郷」らと共に薩摩藩に復帰を果たします。
復帰後、「村田新八」は「薩長同盟」や「薩土盟約」締結のために奔走し、「王政復古」に向けて各地に赴き、多くの攘夷志士たちと交流しました。
「村田新八」の晩年と最期
「王政復古」が発せられた後、明治元年(1868年)に「戊辰戦争」が始まると、「村田新八」は監軍や小隊長として、「鳥羽・伏見の戦い」をはじめ、各戦場に赴きます。
また、「西郷」が江戸城開城交渉に臨む際は警護を担当しました。
明治維新後は「岩倉使節団」のメンバーとして欧米へと渡っています。
しかし、「村田新八」が海外に滞在している間に、日本では「征韓論」による政治争いが起こっており、論争に敗れた「西郷」は鹿児島へと下野していました。
帰国後、事情を知った「村田新八」も「西郷」を追って鹿児島へ戻り、設立した私学校の監督となって、地元の士族たちの統率に当たりました。
そして、明治10年(1877年)の1月に日本最後の内乱である「西南戦争」が勃発します。
「村田新八」は薩軍の二番大隊指揮長として、明治政府軍と相対しますが、「田原坂の戦い」や「安政橋口の戦い」など相次ぐ戦いで薩軍は敗北を喫しました。
その後、薩軍は鹿児島まで後退するも、9月には明治政府軍に包囲されてしまうのです。
同月24日、「村田新八」らは岩崎口に向けて進軍するも、その途上で「西郷」が被弾してしまいます。
最後を悟った「西郷」は自決を決意し、自決を見届けた後も「村田新八」らは進軍を続けましたが、岩崎口での戦闘の最中、享年42歳で没しました。
「村田新八」の死に様の信憑性
「西南戦争」最後の戦いである、「城山の戦い」にて自決したとも、一方で胸に銃弾を受け戦死したとも云われています。
「大久保利通」に次ぐ傑物
「勝海舟」は「村田新八」を「大久保利通」に次ぐ傑物と評しており、その死を大変悼んだと伝わっています。
まとめ
「村田新八」は攘夷志士として「西郷隆盛」らと共に活動した薩摩藩士です。
明治維新後は「岩倉使節団」の一員として海外へ渡りますが、帰国後に「西郷」が政治論争に負けて鹿児島へ下野したことを知ると、「村田新八」も「西郷」の後を追って帰郷しました。
その後、「西郷」率いる薩軍と明治政府軍との間で起こった「西南戦争」にて「村田新八」は自決、もしくは戦死したとされています。