「小田氏治」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「小田氏治」の死に際とは?日本の人物

小田氏治は戦国時代の常陸の武将で、小田城を何度も落城させてしまった人物とされています。

それにより戦国最弱というイメージを持たれることもあります。

その晩年と最期はどのようなものだったのでしょうか。

小田氏治とは?

小田氏治は、常陸の戦国大名である小田政治の子として生まれます。

小田氏は関東の名族の一つでしたが、戦国時代になるとその勢力は大分衰えていました。

北は佐竹氏、南は後北条氏という二大勢力に挟まれ、近隣諸国と領土をめぐる争いを繰り返しています。

居城としていた小田城は何度も敵に奪われており、その数は何と9度にもなります。

戦では何度も敗れているため、戦国武将の中でも弱いという印象が定着してしまいました。

小田氏治の晩年

天正18年、小田氏治は佐竹氏に奪われた小田城の奪還を試みていました。

兵を率いて小田城を攻めたのです。

樋ノ口の戦いと呼ばれており、優位に戦いを進めますが小田城の奪還には至りませんでした。

佐竹氏側に援軍が来たためです。

しかもちょうどその頃、豊臣秀吉は小田原征伐の真っ最中でした。

20万もの大軍を率いて、小田原城を攻め落とそうとしていたのです。

小田城を奪還できなかった氏治は北条氏政に援軍を送ってくれるよう頼みますが、氏政は豊臣秀吉の大軍と戦っているのですからそれどころではありません。

援軍を送る余裕はありませんでした。

氏治も豊臣秀吉から小田原攻めに参加するよう求められていましたが、先祖伝来の小田城を取り戻すことで頭がいっぱいだったためか従いませんでした。

豊臣秀吉が天下人となるとそれが問題視され、所領を全て没収されてしまいます。

氏治が戦った佐竹氏は豊臣側に早くからついていたため、佐竹氏を攻撃したことも問題となったのです。

小田氏治の最期

豊臣秀吉によって所領を没収された氏治ですが、大名としての小田家そのものもなくなってしまいます。

氏治は豊臣秀吉の臣下となることを希望しましたが、それも叶いません。

しかし、氏治の娘が徳川家康の次男である結城秀康の側室であったため、結城秀康の臣下となりました。

秀吉に対して謝罪すると、罪を許されて300石を与えられています。

秀康が越前へ転封されると、それに伴い越前へ嫡男である守治と共に移っています。

そして慶長6年に68歳で亡くなりました。

小田氏治をめぐる逸話

小田氏治は何度も城を奪われてしまったので、最弱の侍と不名誉な呼ばれ方をすることもありました。

実際、戦が上手だとは言えないかもしれません。

しかし、何度奪われてもその度に奪回しているので、単純に戦下手とはいえないようにも思えます。

領民からは慕われており、領民の協力もあってすぐに奪い返すことができたといわれています。

まとめ

小田氏治は晩年、豊臣秀吉の小田原征伐に加わらなかったことを咎められ領土を没収されてしまいました。

しかし、娘が側室になっていた結城秀康の家臣となり、故郷を離れ越前の地で亡くなりました。

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