軍師「黒田官兵衛」の息子であり、知勇兼備の猛将「黒田長政」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「黒田長政」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「黒田長政(くろだ ながまさ)」とは?簡単に説明
「黒田長政」は戦国武将であり、後に筑前国(現在の福岡県西部)福岡藩初代藩主になった人物です。
「豊臣秀吉」の軍師として活躍した「黒田官兵衛(孝高)」の嫡男としても知られています。
父「孝高」と共に、「織田信長」の時代より「秀吉」に臣従していました。
「信長」没後も、「秀吉」の家臣として「賤ケ岳の戦い」を始め、数々の戦場で武功を挙げました。
「秀吉」の死後、「関ケ原の戦い」では東軍として参戦します。
戦後、「徳川家康」より「関ケ原の戦い」で最も貢献したと讃えられ、筑前国名島城を与えられました。
「黒田長政」の晩年と最期
慶長19年(1614年)に豊臣方と徳川方で「大阪冬の陣」が起こると、嫡男「忠之(ただゆき)」を代理で派遣し、自身は江戸城にて居留守役を務めました。
父「官兵衛」のこともあってか、この時期、幕府により交流関係を調べられ、何度も「起請文(きしょうもん)」(神仏に誓って、約束や契約を破らないことを書き記した文書)を提出させられたそうです。
翌慶長20年(1615年)に「大阪夏の陣」では自ら「徳川秀忠」に従軍し、参戦しています。
その後、元和9年(1623年)8月4日(8月29日)に上洛後の京都にて死去します。
享年56歳でした。
「黒田長政」の死に様の信憑性
死因については定かとなっていませんが、上洛時にはすでに病に罹っていたと伝わっています。
「黒田長政」の兜にまつわるエピソード
「黒田長政」が愛用した兜として水牛の角をかたどった「大水牛脇立兜」と「一の谷形兜」があります。
この「一の谷形兜」ですが、「源義経」が断崖絶壁を越えて平家に奇襲をかけた「鵯越の逆落とし」の崖をモチーフにした珍しいデザインがとても有名です。
もとは豊臣家臣「福島正則」が愛用していましたが、「朝鮮出兵」の折、「黒田長政」との間で仲違いが起きました。
その後、2人は仲直りの証としてお互いの愛用の兜を交換し、交換した兜をかぶって出陣したと云われています。
また、この兜は「正則」へ渡る前、父「官兵衛」と並んで評される名軍師であり、幼少の頃に長政の命を救った「竹中半兵衛」が生前使用していたとの史料もあるようです。
まとめ
「黒田長政」は、「秀吉」の軍師「黒田官兵衛」の嫡男であり、後に筑前国福岡藩初代藩主となった人物です 父親譲りの知勇のみならず、武勇にも優れ、「豊臣秀吉」家臣として数々の戦功を挙げ続けました。
「秀吉」没後、「徳川家康」に臣従し、「関ケ原の戦い」では最大の貢献を果たしたと評されます。
その後、元和9年(1623年)8月4日(8月29日)、京都にて56歳の生涯に幕を下ろしました。
上洛した時点で病を患っていたとも云われていますが、死因については定かとなっていません。