藤原氏黄金時代を築いた「藤原頼通」の晩年とは?
この記事では「藤原頼通」の晩年や功績について分かりやすく解説していきます。
「藤原頼通」とは?簡単に説明
歴史を知らない方に藤原頼通を簡単に説明するとすれば10円玉の表にある『宇治平等院鳳凰堂』を建立した人と伝えると良いでしょう。
また実際にそれくらい権力を持ち、栄華を極めた人物でもあります。
父「藤原道長」が藤原氏興隆の祖と言うのならば、頼通はそれを維持することに尽力しました。
とはいえ“盛者必衰”の世の理のごとく、晩年は五摂家の根底を揺るがす時代の波に飲み込まれていきます。
「藤原頼通」の晩年
栄華を極めてきた藤原氏ですが、その雲行きが怪しくなり始めたのは、71代天皇「後三条天皇」が即位してからのことでした。
年齢差はもちろんのこと、藤原氏と外戚をもたない天皇であることに加え、皇太子時代に冷遇されてきたことが尾を引いています。
頼通は彼を皇太子にすることに反対しており、秘密裏にだけではなく公で冷遇していたのですから、関係が拗れないわけがありません。
さらに一族内での問題も発生することなります。
関白権の譲渡をしたところまではいいのですが、卑屈なまでに従順だった弟「藤原教道」との関係に亀裂が入ることになってしまうのでした。
さらには道長時代には問題とならなかった摂関政治の短所が噴出したのに加え、内政不安、外寇と頭を悩ます問題が山積みになってしまいます。
「藤原頼通」の死に様
頼通自身は酸いも甘いも経験し、若い頃とは性格が一変し、甘美な生活が好みのうえ贅沢三昧を好んでいました。
そんな頼通でも息子のことは心配のようで、本来ならば譲渡は教通ではなく、実子の「藤原師実」にしたかったのですが、道長の遺言通り姉である藤原彰子に反対され、教通に関白を譲ります。
関白の座を譲り受けた教通は頼通が元気なうちはたびたび辞表を出したり、師実に左大臣を譲るなど表面上は遵守する姿勢を見せていましたが、頼通にいよいよ死の際が迫ると天皇の裁可を理由にこれを拒否。
頼通は酷く恨んだのは当然のことでしょう、そして失意のなか1074年2月にその生涯を終えています。
享年83歳、姉の上東門院彰子も同年10月87歳で逝去、教通は翌年11月に80歳で亡くなっています。
「藤原頼通」の死に様の信憑性
頼通の死に関しては、父である道長のように諸説は残っていません。
『百錬抄』2月2日条に「宇治前太政大臣薨八十二御宇治」が残されている程度です。
関白を務め権力の中央にいた人物としては考えられないほどの史料の少なさと言っていいでしょう。
まとめ
“無事之名馬”とは現代の造語ですが、藤原道長の家系はまさしくこれがあてはまります。
父・道長もこの時代には長寿の62歳まで生き、頼通、教通、彰子は80歳以上を生き藤原氏の黄金時代を築き維持するのに成功しています。
しかし頼通は尽力はしましたが、結果として天皇の外祖父の座を掴むことができませんでした。
これが結果的に真綿で首を締めるかの如く、次世代以降が衰退の代償を払うことになったと言えるでしょう。