“秀勝”は縁起の良くない名前?一族衆として取り立てられるも、最後まで叔父に振り回された?
「豊臣秀勝」の晩年、そして死に際を解説。
「豊臣秀勝」とは?簡単に説明
豊臣秀勝は豊臣秀吉の姉の日秀と三好吉房の次男にあたります。
兄は関白にもなった秀次、弟には豊臣秀長の婿養子になった秀保が実の兄弟です。
先代の秀勝いわゆる「於次秀勝」が早逝した事で秀吉の養子になりました。
諱・官位・所領を引き継いだ事でこの二人を混同する方も散見する事が多い武将です。
トントン拍子で出世、秀吉に勘当されたものの甘い処遇で復帰した幸運の持ち主でもあります。
しかし秀勝という名前は一門に取って鬼門なのでしょうか…彼もまた先代、先々代同様若くして亡くなってしまうのでした。
「豊臣秀勝」の晩年
秀勝は24歳の若さで亡くなっています。
17歳の時に秀吉の養子になってからは、彼の庇護のもと戦国武将としては甘い処遇を受けていたのは晩年まで変わりません。
九州平定時の恩賞を巡って秀吉に不満を唱え勘当されますが、翌年には豊臣姓を下賜されています。
養子かつ一門衆であるとはいえ、黄母衣衆で古参の黄神子田正治、尾藤知宣が追放後も苛烈な処遇を受けたのに比べれば勘当とは名ばかり。
微々たる懲罰だったといえ、この失敗を除けば厚遇を受けていたといってもいいでしょう。
蜂屋頼隆が亡くなった際には、彼に遺児がなかった為財産を引き継いだ事はその一例です。
徳川家康の抑えとして縁のない甲斐・信濃国転封したものの実母瑞龍院日秀の要請で赴任8ヶ月で尾張から近い美濃岐阜城主に転封されたのも同様。
兄秀次の出世に伴い、従四位下・参議になるなど順風満帆でしたが、1592年の李氏朝鮮への出兵が彼の人生を大きく変えることとなりました。
「豊臣秀勝」の死に様
1592年の李氏朝鮮への出兵、いわゆる文禄の役では9番隊を細川忠興らと形成。
4月下旬に壱岐島から李氏朝鮮の巨済島に滞在していましたが、そこで病に罹患し呆気ない最後を遂げています。
いずれにせよ日本には帰る事ができず、病魔がなんであったにしろ充分な治療は受けれなかったのは明白でした。
天正20年9月9日に豊臣秀勝は巨済島で病死。
享年24。
「豊臣秀勝」の死に様の信憑性
9番隊の大将であったため、その処理には釜山滞陣中の軍監黒田官兵衛が渡海して処理を行った記録が残されており、秀勝が巨済島で亡くなったのは疑う余地がありません。
兄・秀次、弟・秀保の死には陰謀論、毒殺などの考察も多く見られます。
しかし秀勝の亡くなった時期には秀頼はまだ生まれておらず陰謀論を唱える方は少ないように思えます。
この時期秀吉は大陸制圧後の朝鮮支配を秀勝に任せる構想があった為、死因は単純に病死だと言っていいでしょう。
まとめ
豊臣秀勝の死因や死に際などに関してはほとんど記録が残されていないため、はっきりとした事は不明のままです。
渡海して半年後に病に臥せった事、そして夏を越している事などを考慮した場合可能性として高いのは風土病であるマラリア。
風土病として現代でも残っていたため、可能性のひとつとしては充分にあると言えるでしょう。
また島への出征、滞陣となり下水設備が良くなく衛生管理が悪いのは明らかで感染症、特にチフスの可能性もあると言えます。
実際に敵国である李氏朝鮮の李舜臣の死因は腸チフスでした。