「支倉常長」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「支倉常長」の死に際とは?日本の人物

「遣欧使節」として日本人初の太平洋・大西洋横断を果たした「支倉常長」ですが、どのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「支倉常長」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「支倉常長(はせくら つねなが)」とは?簡単に説明

「支倉常長」「伊達政宗」に仕えた戦国武将です。

慶長14年(1609年)にフィリピン総督を乗せた「サン・フランシスコ号」が上総国(現在の千葉県中部)に座礁したことを機に日本とエスパーニャ(スペイン)との国交が始まります。

これを受けて主君「伊達政宗」はメキシコとの直接貿易のため(倒幕に向けた軍事同盟を結ぶためとも)に「遣欧使節団」の派遣を決定しました。

その「遣欧使節団」の使者として抜擢されたのが「支倉常長」です。

慶長17年(1612年)に暴風により座礁し仙台に引き返すも、翌年に再度出航しました。



「支倉常長」の晩年と最期

出港後、「支倉常長」たちは太平洋を渡り、北アメリカ大陸の「アカプルコ」(現在のメキシコ合衆国ゲレーロ州)に上陸します。

その後、大西洋を渡ってスペインに上陸、慶長20年(1615年)1月にエスパーニャ国王「フェリペ3世」に謁見し、マドリードにて洗礼を受けました。

同年10月にはローマへ渡り、ローマ教皇「パウルス5世」に謁見しています。

この時にローマ市議会より市民権と貴族の位が認められ、「支倉常長」はアジア人で唯一ローマ貴族の称号を与えられた人物と言われています。

しかし、日本ではすでに「支倉常長」出航の翌年から「キリスト教禁止令」が発されており、キリスト教は弾圧されていました。

そうした国内情勢が欧州にも伝わりつつあったことから、結果的に交渉は失敗に終わってしまいます。

7年に及ぶ海外渡航の末、「支倉常長」は元和6年(1620年)に日本へ帰国しますが、国内では激しいキリスト教弾圧に遭いました。

そして、失意の最中、帰国から2年後の元和8年(1622年)7月1日、享年51歳で死去しました。



「支倉常長」の死に様の信憑性

死因については不明で、定かではありません。

「支倉常長」の懐紙

当時、日本では「懐紙(かいし)」と呼ばれるポケットティッシュのような使い捨ての紙を持ち歩く習慣がありました。

欧州では、鼻をかむときはハンカチや手鼻を使っていたため、この「懐紙」が現地の人には物珍しく映ったようです。

そのため、欧州滞在の際に「支倉常長」が鼻をかんで捨てた「懐紙」が博物館に展示されていたこともあるようです。

まとめ

「支倉常長」「伊達政宗」に仕えた戦国武将であり、後に「遣欧使節団」の使者としてヨーロッパへと渡ります。

日本人初の太平洋・大西洋横断を成し遂げるも、「支倉常長」が海外で交渉に注力している間、日本ではキリスト教の弾圧が始まっていました。

その影響で7年をかけた交渉は実を結ばず、帰国を果たすもキリシタンであったことから弾圧の憂き目に遭ってしまいます。

そして、帰国から2年後の元和8年(1622年)7月1日に51歳の生涯を終えました。

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