「関ヶ原の戦いで、小早川秀秋と共に東軍へ寝返った」
朽木元綱の印象と言えば、これが1番に思い浮かぶ人が多いかもしれません。
しかし、彼は意外な活躍もしていたのです。
そんな朽木元綱の晩年や最期を紹介します。
「朽木元綱」とは?簡単に説明
朽木元綱は1549年(天文18年)、近江の朽木谷城主・朽木晴綱の嫡男として生まれました。
生まれた翌年、父・晴綱が戦死したため、わずか2歳で家督を継ぎました。
1570年(元亀元年)、朝倉領へ侵攻中の織田信長が浅井長政に裏切られ、京へ撤退する際は、元網は松永久秀の説得を受け、信長の京都撤退を助けました。
このことは後に「朽木越え」と呼ばれました。
後に、信長に仕え、信長の死後は豊臣(羽柴)秀吉に仕えています。
1590年(天正18年)、秀吉から豊臣姓を与えられました。
「朽木元綱」の晩年
秀吉の死後、関ヶ原の戦いが起きると、元網は西軍に付き、大谷吉継の麾下として参戦しました。
しかし、小早川秀秋が東軍へ寝返ると、それに呼応し、彼も東軍へ寝返ります。
同じく大谷軍麾下にあった小川祐忠や赤座直保らも寝返り、彼らとともに大谷軍を攻めたことで、大谷軍は壊滅、大谷吉継は自害しました。
関ヶ原後は、所領(近江国高島郡)を安堵されました。
「朽木元綱」の死に様
1616年(元和2年)に剃髪して「牧斎」と名乗り、領内で隠居。
そして、1632年(寛永9年)、朽木谷で亡くなりました。
享年84。
元網の死後、領地は3人の息子に分け与えられました。
「朽木元綱」の死に様の信憑性
近江国高島郡に「朽木藩」が存在しており、元綱の晩年や死後について藩の記録などに書かれていることから、朽木元綱の死に様についての信憑性は高いと考えられます。
朽木家のその後
元網には宣綱、友綱、稙綱、3人の息子がいました。
長男の宣綱が朽木宗家の家督を継ぎ、元網から受け継いだ領地が最も多かったのですが、三男の稙綱が3代将軍・徳川家光に気に入られて、大名として取り立てられたために、庶流(分家)の方が石高が上というおかしな逆転現象が起きました。
(朽木宗家は約6000石でしたが、大名は1万石以上の領地を持っています)
朽木家は代々、室町幕府の奉公衆を務めていて、京から追われた室町将軍を何度も保護しています。
春綱や元網の時には、三好長慶によって京を追われた13代将軍・足利義輝を朽木谷に匿っています。
まとめ
朽木元綱の晩年や最期について紹介しました。
関ヶ原で寝返ったことばかりが注目され、地味な印象の強い彼ですが、朽木家が室町幕府の将軍を匿っていたことや、朝倉領から撤退する織田信長を助けたことも含めて考えると、日本の戦国史の大事な場面に関わっていた男であることが分かります。
もし、朽木家が足利義輝を保護していなかったら、信長の撤退を助けていなかったら(襲いかかっていたら)、関ヶ原で裏切らなかったら… そんな歴史の「if(もしも)」の想像をかきたててくれるのではないでしょうか。