「織田信雄」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「織田信雄」の死に際とは?日本の人物

戦国時代の武将「織田信雄」とは、どのような歴史上の人物なのでしょうか?

おおまかな人生のあらましを簡単に解説して、その晩年・死に様について詳しく紹介していきます。

「織田信雄」とは?簡単に説明

「織田信雄(おだのぶかつ,1558年~1630年)」とは織田信長の次男で、「本能寺の変(1582年)」の後、豊臣秀吉と結んで弟・信孝を倒した武将です。

「小牧・長久手の戦い(1584年)」では徳川家康と同盟し秀吉と争いましたが和睦、その後は秀吉に従って戦いました。

「関ヶ原の戦い」では傍観者的態度を取って家康から改易されましたが、豊臣家を滅ぼす「大坂の陣」の功績で家康から大和国松山藩など5万石を拝領しました。



「織田信雄」の晩年

「織田信雄」は徳川家康と同盟して豊臣秀吉と「小牧・長久手の戦い(1584年)」で戦いましたが、その後は秀吉に臣従しました。

「小田原征伐」に参加したものの、領地問題で秀吉の怒りを買って、下野国烏山に流されます。

「関ヶ原の戦い」では信雄は大坂で中立的態度を取ったことから、家康に西軍に与したと解釈されて改易処分を受けました。

しかし、「大坂冬の陣・夏の陣(1614~1615年)」では徳川方に味方して、元和元年(1615年)7月23日に家康から大和国宇陀郡など5万石を与えられました。

晩年の信雄は、江戸幕府や政治の中枢とは距離を置いて四男・五男に所領を相続させ、京都で悠々自適の風流人のような生活を送りました。



「織田信雄」の死に様

「織田信雄」は前半生は父・織田信長や豊臣秀吉と共に多くの戦に参加する波乱の人生を送りましたが、その死に様は73歳の天寿をまっとうして京都に築いていた自邸で死ぬという穏やかなものでした。

元和元年(1615年)7月23日に、徳川家康から引退料のような形で大和国宇陀郡など5万石の領地を与えられて、「茶の湯・庭づくり・文学・芸術・鷹狩り」などを楽しむ悠々自適の風流人のような引退生活を送っていました。

寛永7年(1630年)4月30日、京都の自邸である北野邸にて、当時としてはかなり長生きな73歳の寿命を終えたのです。

戦死・事故死などではないので、高齢・老衰あるいは老衰に伴う病気による死亡と推測されます。

「織田信雄」の死に様の信憑性

「織田信雄」は織田信長の息子の中で唯一江戸時代まで大名として生き残った血筋で、「関ヶ原の戦い・大坂冬の陣と夏の陣」も乗り切り、政治の中枢から離れたところで信雄が趣味人のような余生を送ったことは信憑性があります。

1628年10月に江戸で催された3代将軍・徳川家光の大茶会にも参加していて、その2年後の1630年4月30日に京都にあった北野邸で老衰あるいは病気のために静かに亡くなったとされています。

まとめ

「織田信雄」の大まかな人生の流れと晩年・死に様について分かりやすく解説しましたがいかがでしたか?

「織田信雄」は、茶の湯・和歌など趣味を楽しむ悠々自適の引退生活を送った後、寛永7年(1630年)4月に京都の自邸にて73歳で死去しました。

「織田信雄」の死に様について詳しくリサーチしたいときは、この記事の解説を参考にしてみてください。

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