吉子女王は、徳川家最期の将軍となった徳川慶喜の生母です。
幕末という激動の時代に生まれ、皇室から水戸藩に降嫁するなど数奇な人生を歩みました。
吉子女王が晩年や最期をどのように迎えたのかについて紹介します。
吉子女王とは?
吉子女王は、有栖川宮織仁親王の娘として誕生しました。
27歳の時に、姉である喬子女王の仲介で水戸藩主である徳川斉昭の元に嫁ぐことが決まります。
27歳という年齢は、当時としては晩婚です。
斉昭と結婚すると夫婦仲はとても睦まじかったとされており、4人の子供にも恵まれました。
その一人が、後に徳川幕府最後の将軍となる徳川慶喜です。
しかし、夫の斉昭は安政の大獄により永蟄居を命じられ、処分が解けぬまま急死してしまいます。
吉子女王は落飾し、長男である慶篤の後見を務めました。
吉子女王の晩年
吉子女王の夫である徳川斉昭が亡くなると、水戸藩は大いに混乱しました。
斉昭は強硬な尊王攘夷派として知られる人物です。
斉昭の死後は尊王攘夷派と保守派が激しく対立し、内乱へと発展してしまいます。
吉子女王は藩主となった息子の慶篤を支えますが、慶篤はそれを上手くおさめることができませんでした。
相当な心労があったようで、慶篤は慶応4年に急死します。
また、吉子女王は、夫の願いであった慶喜を将軍にするという願いをかなえるためにも尽力したといいます。
将軍となった慶喜でしたが、大政奉還を行い政権を天皇に返上します。
戊辰戦争が勃発すると、慶喜は朝敵となりました。
皮肉なことに慶喜を追討する新政府軍の東征大総督になったのは、吉子女王の実家である有栖川宮家の熾仁親王でした。
慶喜は水戸で謹慎した後に、静岡に移ることになります。
明治の時代になると吉子女王は東京に移り住み、水戸藩の下屋敷があった向島小梅邸で晩年を過ごします。
慶喜と一緒に住むことはありませんでしたが、手紙のやり取りなどは頻繁に行っていたようです。
実家である有栖川宮家との交流も復活しています。
吉子女王の最期
吉子女王は向島の屋敷で穏やかに暮らし、明治26年に亡くなりました。
享年90で、天寿を全うしています。
死因は90という年齢を考えれば老衰でしょう。
吉子女王をめぐる逸話
吉子女王は、大変な賢夫人として知られています。
夫の斉昭によく仕え、夫婦仲は良好でした。
斉昭には吉子女王と結婚する以前から側室がおり、結婚してからも数多くの側室を持ったといいます。
側室から生まれた子を含めると、斉昭の子は37人にもなります。
吉子女王は側室が生んだ子供たちの教育にも目を配ったといわれています。
晩年には、側室が生んだ斉昭の子供達との交流もありました。
まとめ
吉子女王は皇族として生まれますが、27歳の時に水戸藩主である徳川斉昭の元に降嫁します。
晩年は水戸を離れて東京に移り住み、穏やかな暮らしをしていたようです。
息子の慶喜や実家である有栖川宮家とも交流していました。
90歳まで長生きし、天寿を全うしています。