数年前のNHK大河ドラマ「真田丸」でも一躍話題になった真田信繁。
小説や他のテレビドラマでも「真田幸村」という名前で知られている歴史的に有名な人物です。
この記事では「真田信繁」の死に際について解説していきます。
「真田信繁」とは?簡単に説明
「真田幸村」という名前で知られている「真田信繁」は、安土桃山時代から江戸時代の初期という時代を生き抜いてきた武将です。
彼は歴史小説の中でも歴史的ヒーローとして有名な人ですが、彼が表舞台で大活躍してきたのは、大阪の陣ではないでしょうか?
「真田信繁」の死に様
「真田信繁」は知将で知られる真田昌幸の二男で、関ヶ原の戦いで、石田三成率いる西軍に与しました。
西軍が德川側の東軍に負けたことは周知の事実ですが、本来であれば、真田親子は切腹されるはず。
しかし、徳川についた長男の真田信之の嘆願によって命を長らえることができたのです。
その後、石田三成は旗揚げし、徳川家康と覇権争いをすることになりますが、真田信繁は西軍につき大阪の陣で戦うことに。
一時は德川本陣まで迫る勢いを見せて、家康が自刃する直前まで追い込んいきます。
しかし、多勢に無勢。
兵力で勝る德川軍に押し返されて真田信繁は退却し、満身創痍の身体を安居神社で休ませていたのです。
ここで德川の兵士に見つかり、打ち取られることになりました。
通常であればここで最後の抵抗になるのが普通ですが、信繁は「この首を取って手柄にしろ」と相手に取られたという逸話が残っています。
「真田信繁」の死に様の信憑性
真田信繁が安居神社で打ち取られたことは歴史の物語ることですが、一説には首を斬られたのは影武者であり、本人は主君である豊臣秀頼と四国に落ち延びたという説があります。
真偽は定かではありませんが、後世の軍記物などの創作でヒーロー的な存在となったために、このような説が残り、民衆に広がっていったのかもしれません。
「真田信繁」の小ネタ等
真田信繁にまつわる話は数多くあります。
前述の通り、大阪夏の陣では德川本陣まで切り込み、もう逃げきれないと観念した家康が自ら切腹しようとしたほどです。
この時の真田信繁の勢いは相当なものだったのでしょう。
また、大阪夏の陣で見方が不利になった時、自分の妻と娘をなんと敵側の伊達政宗の家臣である片倉小十郎に託したという話も残っています。
この件はかなり信憑性の高い話であり、後年には仙台藩で真田が復興されたほど。
これもまた真田信繁の人柄によるものかもしれません。
まとめ
真田信繁は父・昌幸とともに家康に恐れられた人物。
それだけに大阪の陣が始まる時には德川側から何度も調略されたほどです。
しかし、彼は最後まで豊臣家に忠誠を誓い、戦いました。
最後は負けて打ち取られたものの、敵兵に己れの首を差し出すところなどは、潔ささえ感じさせてくれます。
これもまた、信繁が歴史的なヒーローであり、いつの時代でも人気が高い所以かもしれません。