天才プログラマーと敏腕経営者、両方を合わせ持った「岩田聡」の散り際とは?
この記事では岩田聡の晩年と散り際について解説していきます。
「岩田聡」とは?簡単に説明
ファミコン黎明期においてハル研究所でゴルフ、ピンボールといったソフトをプログラミング。
社長就任後に経営危機を乗り越える手腕を見せたのを買われて、2000年に任天堂に入社。
2年後には同族経営であった同社代表取締役社長に就任したのが「岩田聡」氏です。
ゲーム人口の拡大を旗頭に『ニンテンドーDS』を発売し、同機はわずか1ヶ月で日米で280万台を売り上げるヒット商品となりました。
二年後には『Wii』を発売。
同機は出荷1億台を記録するなど、その手腕を存分にふるったと言っていいでしょう。
「岩田聡」の晩年
社長就任当初の戦略はズバリはまったもの、後半はやや厳しい情勢下に身を置くこととなりました。
『ニンテンドー3DS』は円高の逆ざやにより、12年上四半期4月からの3ヶ月の営業損益は103億赤字を計上。
また同年下期に発売された『Wii』の後継機も販売数が伸び悩むなど苦難の道を歩むこととなりました。
それに追い討ちをかける形になったのが自身の健康問題だと言えるでしょう。
「岩田聡」の死に様
2014年6月の健康診断で胆管腫瘍が判明。
同月中に手術を行うとお盆明けには復帰したことを自ら明かしています。
しかしその姿は入院前とは別人のように頬がこけ落ちており、健康状態を懸念する声が世界中から挙がるほどでした。
15年6月30日の株主総会には出席、代表取締役社長に再任されていますが、その数日後に体調を崩して入院。
7月11日4時47分に永眠しています。
死因は胆管腫瘍によるものでした。
55歳没。
入院から10日ほどの急逝となっています。
「岩田聡」の死に様の信憑性
2014年6月に胆管腫瘍が発覚。
手術を行い、8月に現場に復帰しています。
公に姿を見せたのは14年10月30日の経営方針説明会、続けて11月6日にもニンテンドーダイレクトでその姿を見せました。
しかし岩田氏の顔が別人のように頬がこけ、激ヤセした事に衝撃を覚えた方も多いはずです。
ネットではすぐさま比較画像が作られ拡散、海外からも心配の声が挙がるほどでした。
即座に任天堂のツイッターで自身の健康状態に関するつぶやきが出されるほどで、世界中から反響があったのは間違いないでしょう。
当時任天堂は3期連続業績赤字中だった事もあり、心労で痩せたと茶化すコメントもありました。
しかし胆管腫瘍の5年生存率は50%を切るため、岩田氏の健康状態を懸念する声は極めて大きいものとなっていきます。
一方で岩田氏自身は胆管腫瘍の予後の悪さも承知済。
胆管腫瘍を徹底的に調べあげ、自分の生存確率と死亡確率を算出。
生き残るための最適な治療法を自分なりに模索、探究して医者と議論を交わしていたそうです。
ただ容態がこれほど急速に悪化するのは計算外だったのかもしれません。
まとめ
「岩田聡」氏は2015年7月11日4時47分に胆管腫瘍がもとで命を落としています。
55歳没。
6月末の株主総会で社長に再任されたばかり。
その時には健在な姿も見せていただけに、まさに急逝だったと言っていいでしょう。