「岩倉具視」とは?
岩倉具視の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「岩倉具視」とは?簡単に説明
幕末維新の功労者・中心人物というと西郷隆盛や坂本龍馬といった薩長土肥の志士たちがまず挙げられますが、天皇や関白に近づき、陰で朝廷工作を行なった岩倉具視の存在も忘れることはできません。
明治新政府誕生後、岩倉使節団を設立して欧米を視察し、その結果を受けて日本の近代化に力を注ぎます。
大日本帝国憲法の制定も重要視し、伊藤博文に任せますが、制定を見ることなく亡くなります。
「岩倉具視」の晩年
西南戦争が終結すると、自由民権運動が活発化し、岩倉の立憲問題に関する考えにも変化が見られ、憲法制定の必要性を痛感し始めます。
そして岩倉の晩年は憲法制定に注がれます。
そのため、自分の後継として憲法制定を任せられる人材を決めることに尽力し、明治十四年の政変で大隈重信を罷免し、伊藤博文に憲法制定を任せることと決めます。
稀代の政治家と言われる岩倉は晩年に至っても政局の大きな岐路に黒幕として立ち回っていたのでした。
「岩倉具視」の死に様
明治16年6月、京都御所保存計画のために京都に来ていた岩倉は喉の痛みを訴えます。
この時、岩倉はすでに飲食が困難な状態でした。
心配した明治天皇はドイツ人医師のベルツに岩倉の診察を命じます。
診察したベルツは岩倉が食道がん(咽頭がんという説もあります)に冒されていると診断し、このことを岩倉本人に伝えたのです。
これが日本初のがん告知と言われています。
この時、岩倉は「あと数週間だけ命を延ばしてほしい」と頼んだそうです。
憲法調査のためにヨーロッパに行っていた伊藤博文に遺言するためでした。
告知を受けた岩倉は東京に戻り、療養生活に入ります。
7月5日、明治天皇は見舞いのため岩倉邸を訪れます。
この時、岩倉の身体は支えられていましたが、きちんと正装して拝謁したのでした。
しかしその後、皇后が訪問された際はひざまずくことさえできないほど衰えていました。
7月19日、岩倉は危篤状態となり、明治天皇による最後の訪問が行われます。
7月20日午前7時45分、岩倉は息を引き取ります。
帰国が間に合わなかった伊藤に伝えたかった遺言は参議の井上馨に託されました。
「岩倉具視」の死に様の信憑性
岩倉の死に様については、明治天皇から命を受けて、岩倉の診察をし、最期を看取った東京帝国大学医学部教授のドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツの日記や証言で克明に伝わっており、信憑性は相当高いと考えられます。
また岩倉は維新の功労者であり、大久保、西郷、木戸らが亡き後、唯一ともいえる新政府の重鎮である岩倉の死に関して疑う余地はないと思います。
岩倉がこの時、どれほどの功労者であったか判断する目安として、明治新政府になって初めての国葬対象者になったことからもうかがえます。
まとめ
岩倉具視の功績をうかがうものとして日本初の国葬を行なった人というのを挙げましたが、この他にも昭和26年から昭和60年まで使用された五百円紙幣の肖像画になったことでもうかがえます。