「森蘭丸」とは、織田信長の近習であり、織田信長に非常に可愛がられていたとされる武将です。
近年では、様々なゲームや創作物において非常に美男子に描かれる事が多く人気も高い武将です。
織田信長に溺愛されるがあまり、衆道と呼ばれる武士の男色の関係さえあったのではないかという説がある程です。
この記事では「森蘭丸」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈していきます。
「森蘭丸」とは?簡単に説明
「森蘭丸」という名前は、いわゆる俗称であり、いくつかの名前が存在します。
「蘭丸」に次いで「成利」が忌み名として最も有名で、古文書などもこの名で署名されています。
他にも、「乱」や「長定」、「長康」なども存在しますが、どれも明確な証拠はありません。
父は信長に仕えていた家臣であり、12歳頃に弟たちと共に信長に仕えます。
しかし1582年6月21日に起こった本能寺の変の際、信長とともに戦い18歳の若さで討ち死にしました。
「森蘭丸」の死に様
本能寺の変が起こる前、蘭丸は数々の異変を察知しています。
謀反を企てた明智光秀を疑っており、信長に数回に渡り切り捨てるように進言していたのです。
ある日、光秀に対して怒った信長が、光秀を殴りつけた事がありました。
その際、光秀は涙を流しながら「反逆の心は抱かないですが、あまりのことではありませんか」と嘆いたとされます。
これを聞いた蘭丸は、その場を上手く取り繕うのですが、密に信長に「光秀は反逆を企んでいるため、切り捨てるべきです」と伝えています。
さらに食事の際に、何かを考え込んで箸を落とした事にさえ気づかなかった光秀を不審に思い「反逆を考えているからだ」と再度信長に処刑するよう頼んでいます。
しかし、信長はその事には関心を示しませんでした。
本能寺の変が起こる直前、すでに光秀が経った後に信長は夢をみます。
その夢の内容を聞いた蘭丸は「吉報の予兆でありましょう」と答えるのですが、本当の夢の意味を他の者に密かに伝えます。
「殿の見た夢は、明智光秀のせいで殿の身が危険になるという夢である。
もう光秀は居ないので私が斬る事が出来ず悔しい」と語っています。
そして蘭丸の危惧した通り、1582年6月21日朝に、光秀が大軍を率いて本能寺を取り囲みます。
蘭丸を含む100名程の兵しかおらず、鎧や武器すら満足に揃っていませんでした。
信長や蘭丸は鎧すら着られない状況で槍を手に戦いましたが、明智軍の安田国継によって蘭丸は討ち取られました。
18歳の若さでした。
この事件で信長は自害し、ともに戦った二人の弟も討ち死しています。
「森蘭丸」の死に様の信憑性
「森蘭丸」の本能寺の変での戦いの様子が、当時の書物である「天野源右衛門覚書」や「本城惣右衛門覚書」などに記述されています。
当時の様子を描いた浮世絵などもいくつか存在し、そこには蘭が鎧で固めて攻めてくる明智軍勢に対して、鎧を着ずに槍で応戦する様子が描かれています。
ただ上記の2つの書物や、ルイス・フロイスによる「日本史」などでは、信長の自害や蘭丸の最期についていくつもの諸説があるため、確証には至っていません。
「森蘭丸」の小ネタ等
「森蘭丸」は非常に信長に対し忠実だったとされています。
例えば信長が自分で切った爪を処分するようにと命令された際、切られた爪が一つ無くなっていたため、部屋に戻り爪を探したそうです。
有名な話としては、襖が開いているから閉めるように信長に言われた蘭丸は、確認しにいくと襖は開いていませんでした。
そこで蘭丸は、閉まっている襖を自分で開け、閉め直したのです。
その上で信長に「襖は閉まっていた」と報告します。
信長に「襖の閉まる音が聞こえたかのはなぜか」と問われた蘭丸は、「殿が閉まっている襖を開いていると言ったのであれば、殿が間違っていると思われてしまうため、わざと襖の閉まる音を出した」と答えたのです。
まとめ
「森蘭丸」は現在でも人気があり、数々の創作物に登場する武将です。
信長に忠実に仕え、最期は信長のために共に戦いその生涯を終えたのでした。