「織田信忠」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「織田信忠」の死に際とは?日本の人物

織田信長の長男にして後継者・織田信忠の晩年や最期を紹介します。

織田の家督を継いだものの本能寺の変で若くして散った男です。

「織田信忠」とは?簡単に説明

織田信忠の生年はっきりと分かっていませんが、1557年(弘治3年)頃と言わています。

幼名は「奇妙丸」

元服すると、信長に従って各地を転戦します。

将軍・足利義昭の暗躍で、信長包囲網が展開されていた時期です。

戦の度に戦果を挙げた信忠、1576年(天正4年)には、父・信長から織田家の家督を譲られると共に、美濃・尾張の領地と岐阜城を与えられます。



「織田信忠」の晩年

家督を譲られた後も、織田の実権は信長が握っていますが、信忠を後継者と認め、そのように扱っていくようになりました。

1582年(天正10年)には、武田家征伐の総大将として、武田領へ攻め込みました。

信忠は素早い進軍で武田を蹂躙し、武田勝頼を自害に追い込み、武田氏を滅ぼしました。

信長は、信忠の戦功を褒め「天下の儀も御与奪」と表明しました。

これは、織田の家督だけでなく、天下人の地位を信忠に継承していくという意思表明です。

(この時、信忠は辞退しましたが)信忠が天下人として君臨することを認められたわけです。



「織田信忠」の死に様

1582年(天正10年)6月2日、信忠と信長は、備中高松城を包囲中の羽柴秀吉への援軍に向かう途上で、信忠は京の妙覚寺に滞在していました。

このとき、本能寺の変が起きます。

信忠は、信長が滞在する本能寺が明智光秀に襲われたと知り、救援に向かいます。

しかし、信長自刃の知らせを受けると、信忠は二条御所の誠仁親王脱出させ、自身はわずかな兵とともに二条城に篭城しました。

明智勢が二条城への攻撃を始めると必死に抵抗しますが多勢に無勢、信忠は自害しました。

「織田信忠」の死に様の信憑性

織田信忠は、かの有名な本能寺の変のさなかに命を落としています。

変の以後、歴史の表舞台には全く出てこないことから、彼の死に様の信憑性は高いと思われます。

「織田信忠」の小ネタ

「織田信忠」について詳しくみて行きましょう。

父子揃って光秀を困らせた?

織田信長は自害するにあたって、本能寺に火をかけています。

自分の遺体を焼いて見つからないようにするためだったと言われています。

実際、光秀は信長の死体を見つけられませんでした。

一方、二条所で自害した信忠も自分の遺体を隠すように命じ、明智勢は信忠の遺体も見つけられなかったと言われています。

明智光秀は、信長・信忠を死に追いやったも関わらず、その死に確信が持てず、必死に二人の遺体を探すこととなりました。

まとめ

織田信忠の晩年や最期について紹介しました。

信長死後の織田家凋落の原因は、信長だけでなく、家督を継いだ信忠も死んでしまったことが大きな原因と言えます。

信忠が生きていれば、後の羽柴秀吉の台頭や、徳川家康の天下統一も無かったかもしれません。

彼の死もまた、歴史に大きな影響を与えたのです。

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