「平家盛」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「平家盛」の死に際とは?日本の人物

平氏正統後継者の謎の死「平家盛」の死に際、死因を解説。

「平家盛」とは?簡単に説明

平家の棟梁として圧倒的に知名度の高いのは「平清盛」でしょう。

日本初の武家政権を築き、歴史の教科書はもとより小説、ドラマでもその存在は取り上げられています。

しかし本来ならば平家の棟梁として実権を握っていた可能性が高いのが平家盛です。

「平忠盛」の正室である「池禅尼」の実子であり、本来ならば正妻の子である家盛が嫡男となるのが、この時代の慣例でもありました。

嫡男の座こそ譲ったものの着実に成果を残し出世していきます。

しかしさあこれからと言うところで謎の死を遂げてしまうのでした。



「平家盛」の晩年

平清盛が29歳、家盛が24または20歳の時、平氏にとっては思いもよらぬ大事件が勃発します。

それは清盛が祇園社と起こした騒動、いわゆる“祇園闘乱事件” 既に寺社勢力として大きな力を持っていた延暦寺の末寺である祇園社とトラブルを起こしてしまいます。

本寺である延暦寺は裁定に納得がいかず強訴を数度おこなう事態となり平忠盛・清盛は大きなダメージを受ける事となりました。

この兄が犯した失策に乗じて大きく力を持つ事となったのが家盛です。

常陸介・右馬頭に任官されると朝廷に重用され、メキメキと頭角を現していきました。

その一方で清盛がこの事件以来官職の任替、昇進が約10年されなかった事を考えれば、平氏の棟梁は正室の息子である家盛が継ぐ事になっても全くおかしくありませんでした。



「平家盛」の死に様

正室の子で慣例ならば嫡男として扱われているはずの家盛。

その一連の不遇は払拭されたかに思えました。

しかし好事魔多しとはこの事。

1149年2月、鳥羽法皇熊野詣に帯同していた家盛ですが、寒風が既に悪くしていた身体に響いたのか体調をさらに悪化させてしまうのでした。

京に戻ることも叶わずに現在の京都・山崎、往時の落合付近で病死したとされています。

生年が確かでないため正確な年齢は確定できませんが、22歳とも26歳と仮定されています。

「平清盛」の死に様の信憑性

平氏が栄華を極めるより早く、その出世の最中に亡くなってしまった事もあり家盛の記録は他の一門衆や清盛と比べると著しく少ないのが事実です。

『本朝世紀』で亡くなって事実が取り上げられ、乳母父である「平維綱」が出家した事が記載された程度となっています。

某国民的ドラマでは落馬して亡くなる事になりますが、これは完全に創作であると言っていいでしょう。

状況的に陰謀、暗殺説は出て来て当たり前なのですが、いかんせん史料が少ないため空想の範疇でしかないのが現実です。

まとめ

平家盛は兄・清盛の失策から平氏の棟梁になってもおかしくないほど朝廷から厚い信頼を受けました。

右馬頭・従四位下に叙せられたのが亡くなる前年の正月。

まさかその一年後に体調が悪化、死に至るとは思ってもいなかったでしょう。

史料が少ないため1449年2月に大きな範疇で病死(毒殺も含む)したとしか言えないのが現実です。

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