甲相越を股にかけて暴れた?「加藤段蔵」の最後とは?
この記事では加藤段蔵の死に際、そして晩年について解説していきます。
「加藤段蔵」とは?簡単に説明
「加藤段蔵」は知らなくとも甲州乱破の鳶加藤や風魔の飛び加藤という名前は歴史好きな方ならご存知でしょう。
安土桃山時代以降の伝記物や伝承でその名前は知られており、江戸時代に入るとさらに仮名草子、浮世草子と江戸時代前期の文芸作品には良く登場する人物でした。
主に武田、上杉、北条氏の支配地域でその伝承や言い伝えが残っており、妖術使いであったり忍者であったとも言われています。
「猿飛佐助」や「霧隠才蔵」のように架空の人物と言われる一方で風間(風魔)の三郎大夫と縁が深かったともされています。
「加藤段蔵」の死に様
もっとも有名なのは「馬場信春」と「土屋昌続」に斬られた話でしょう。
当初上杉家に使えていたとび加藤こと加藤段蔵でしたが、忍術の凄さに「上杉謙信」が警戒したことで出奔。
武田家に使えたもののそこでも術の凄さを警戒されてしまいます。
武田四天王の馬場信春、奥近習六人衆で武田信玄に寵愛を受けていた土屋昌続に厠に入っているところを斬られたというものです。
また旧主が「長野業正」であり旧恩に報いるために寝所の古今集を盗んで誅殺された話もありました。
長野業正の没年と土屋昌続が信玄の側近として活躍し始めた時期を考えれば似た話でも没年が10年ほど違ってきます。
「加藤段蔵」の死に様の信憑性
信憑性に関していえば全くないと言っていいでしょう。
複数の伝記や軍談が混じっている部分も多く、段蔵が武田家の家宝の古今集を盗んだ話もあれば、以前忍びの者に古今集を盗まれた経験があったが故に警戒されて誅殺されたなど様々。
そもそも加藤段蔵の名前自体が後付けであり、近世の仮名草子や浮世草子では見ることができません。
段蔵の初登場は『絵本甲越軍記』であり、近世でも終盤で200年前ほどに生まれたことになっています。
「加藤段蔵」のよもやま話
架空の人物とはされていますが、ほぼ同年に甲州武田と越後上杉で1558~1559年に飛び加藤の言い伝えが残っているのは奇妙なところでしょう。
「隆慶一郎」氏の『一夢庵風流記』をもとに描かれた『花の慶次 ―雲のかなたに―』にも登場しており、風魔の忍者として登場しています。
「武田信玄」に殺されたのは野に降るためで、主人公の「前田慶次」を助ける役割を果たしました。
それゆえ近年ではこの作品のイメージで想像される方も多いでしょう。
まとめ
加藤段蔵は1803年に書かれた『絵本甲越軍記』で名前が初めてあがっており、それ以前はとび加藤や鳶加藤とも言われていました。
また段蔵は伊賀の忍者となるため、1560年代の風間(風魔)や甲州乱破のとび加藤とは違った設定になっています。
「服部半蔵」や「百地丹波」のようにモデルになった人物は特にいないと言っていいでしょう。