「フランシスコ・ザビエル」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「フランシスコ・ザビエル」の死に際とは?世界の人物

フランシスコ・ザビエルは、日本に初めてキリスト教をもたらした人物として知られています。

その死に際について晩年や最期を紹介します。

フランシスコ・ザビエルとは?

フランシスコ・ザビエルは、スペインのナバル王国に生まれます。

19歳の時に名門パリ大学に入学しました。

やがて聖職者になることを決意し、カトリック教会のイエズス会を仲間と共に創設します。

イエズス会は世界宣教をテーマに掲げており、フランシスコ・ザビエルはインドに派遣されることになりました。

そして、インド各地で宣教活動を行った後、日本にやってきます。

薩摩や平戸、周防といった地域で宣教活動を行います。



フランシスコ・ザビエルの晩年

日本で宣教活動を始めたフランシスコ・ザビエルは、京都を目指します。

宣教活動の許可を天皇から得ようと考えたのです。

しかし、時は戦国時代で、地方の守護大名が力を持ち始めていました。

天皇の権威は失墜し、京都の町が荒廃しているのを目にします。

後奈良天皇と征夷大将軍であった足利義輝に会うことを希望しますが、それは叶いませんでした。

落胆したザビエルは再び周防へ行き、大内義隆に謁見します。

ギヤマンの水差しや眼鏡、置時計など西洋から持ち込んだ様々な珍しい物を献上し、キリスト教の宣教活動を行うことを許可されました。

それにより多くの信徒を獲得したといわれています。



フランシスコ・ザビエルの最期

フランシスコ・ザビエルは、2年ほど日本に滞在した後インドに戻ることにします。

日本人の4人の青年も同行しました。

インドのゴアに到着しますが、ザビエルは中国行きを考えていました。

日本は中国の影響を多大に受けており、日本全国で宣教活動を行うには中国で宣教することが大事だと考えたからです。

しかし、中国広東省の上川島で病を発し、亡くなっています。

享年46でした。

フランシスコ・ザビエルの死因

フランシスコ・ザビエルの死因は、肺炎をこじらせたことだといわれています。

中国で宣教活動をしようとしたザビエルでしたが、中国への入境はあまり上手くいかなかったようです。

船が渡航禁止になるなど心労が重なり、体調が悪い状態が続いていたといいます。

無理をして宣教活動を行おうとしたのかもしれません。

広東省の上川島に到着したわずか2か月後、その生涯を終えたのです。

日本で亡くなったわけでも生まれ故郷のスペインで亡くなったわけでもなく、広東省の上川島で亡くなっています。

フランシスコ・ザビエルをめぐる逸話

フランシスコ・ザビエルがなぜ日本に来ることになったのかというと、マラッカという場所で日本人のヤジロウに出会ったからです。

ヤジロウは薩摩の武士で、故郷で人殺しをして逃亡していました。

その罪を告白するためにザビエルに会いにきたのです。

その出会いがザビエルに、日本で宣教活動を行うことを決意させます。

まとめ

フランシスコ・ザビエルの生涯は、キリスト教の宣教活動に全てを捧げたものでした。

日本・中国でキリスト教を広めることを目指し、病を得て亡くなっています。

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