この記事では、「後醍醐天皇」の晩年や最期を分かりやすく説明します。
「後醍醐天皇」とは?
後醍醐天皇とは後宇多天皇の第2皇子として生まれ、第96代天皇になった人物です。
花園天皇の譲位によって天皇に即位すると、院政は廃止され後醍醐天皇が親政を行うようになります。
鎌倉幕府を倒そうと画策しますが、幕府によって捕らえられ隠岐に流されました。
その後、鎌倉幕府が滅亡したため、再び天皇の座に就きます。
そして建武の新政を行いました。
しかし、新政は失敗に終わっています。
足利尊氏と対立し、吉野に逃れます。
「後醍醐天皇」の晩年
後醍醐天皇は鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政を開始しました。
今までの政治体制や法制度を見直そうとします。
公家も武家も天皇が自ら統率しようとしたのですが、人材登用では公家が優先されたので武士の不満が溜まっていきました。
各地で反乱が起き、足利尊氏も離反します。
建武の新政は2年半で瓦解してしまいました。
足利尊氏は光明天皇を即位させ、北朝が誕生します。
後醍醐天皇は吉野に逃れ、自分が正統な天皇と主張して南朝を誕生させました。
これにより南北朝の時代が訪れたのです。
南北朝の抗争は、これから60年にわたって続くことになります。
ただし、後醍醐天皇に従う公家はあまりなく、北朝に比べると劣勢に立たされていました。
孤立を深め、失意の中で息子である義良親王に譲位しています。
「後醍醐天皇」の死に様
後醍醐天皇が義良親王に譲位したのは、1339年のことです。
義良親王は天皇に即位して後村上天皇となりました。
その年、後醍醐天皇は病により亡くなっています。
享年52でした。
「後醍醐天皇」の死に様の信憑性
後醍醐天皇の死因は病によるものですが、何の病気だったのかははっきりしていません。
「身はたとへ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕の天を望まん」という辞世の句を残しています。
この体は吉野に埋めらてしまうけれど、魂は京都へ帰ることを望んでいるといった歌になります。
吉野に逃れてきたものの、京都に帰りたいと思っていたのでしょう。
足利尊氏に追い出される形で京都を出なければならなかったので、無念さが滲み出る最期だったといえます。
まとめ
後醍醐天皇は晩年、京都を追い出され吉野に逃れていました。
ここで南朝を誕生させますが、京都に帰りたいという思いを抱いていたようです。
そして、52歳で病によって亡くなりました。