「大阪夏の陣」にて「真田幸村」に負けじと奮戦を遂げた猛将「毛利勝永」ですが、どのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「毛利勝永」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「毛利勝永(もうり かつなが)」とは?簡単に説明
「毛利勝永」は豊臣家臣として活躍した戦国武将、並びに戦国大名です。
もともとは「森(もり)」姓でしたが、後に「豊臣秀吉」の命により「毛利(もうり)」姓に改めました。
「織田信長」の時より、父と共に「秀吉」の家臣として仕えます。
「秀吉」の時代に「九州平定」を遂げた後に豊前国(現在の福岡県東部、大分県北部)のうち2郡を与えられました。
慶長5年(1600年)に「関ケ原の戦い」が起こると、西軍として参陣しますが、戦後は「改易」(所領を没収される刑罰)となり土佐の「山内一豊」に身柄を預けられることになります。
「毛利勝永」の晩年と最期
慶長19年(1614年)に豊臣方と徳川方の間で「大阪冬の陣」が起こった折、「毛利勝永」は「秀吉」の跡継ぎ「豊臣秀頼」から招かれて、土佐を脱出して大阪城へ入城します。
翌慶長20年(1615年)に起きた「大阪夏の陣」では、5月6日の「道明寺の戦い」で敗北を喫するも、翌日5月7日の「天王寺口の戦い」では数々の徳川軍の武将を討ち取った後、「徳川家康」本陣へ突入するという獅子奮迅の戦いぶりを見せました。
その後、形勢が厳しくなるに伴い大阪城内へ撤退します。
そして、5月8日に「豊臣秀頼」の介錯をした後、親族と共に自害します。
享年37歳でした。
「毛利勝永」の死に様の信憑性
慶長20年(1615年)5月8日、ついに大阪城へ火の手が回り「毛利勝永」たちは山里丸糒蔵 (蘆田矢倉)へ避難します。
その後、「豊臣秀頼」自害の介錯を行い、息子「勝家」や弟たちと共に自害したと云われています。
「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」
「大阪夏の陣」では「真田幸村(信繁)」の活躍が有名ですが、「毛利勝永」もそれに匹敵するほどの活躍を果たしました。
「大阪夏の陣」の際、「毛利勝永」は「本多忠朝」、「小笠原秀政」、「小笠原忠脩」撃破を皮切りに10将以上の徳川軍武将を打ち破った後、「真田幸村」と共に「家康」本陣へ突入しています。
江戸時代に著された随筆「翁草」では「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」(真田幸村ばかりが取り上げられ、毛利勝永が取り上げられないのが口惜しい)と記されています。
まとめ
「毛利勝永」は「豊臣(羽柴)秀吉」の家臣として活躍した戦国武将、並びに戦国大名です。
「秀吉」の死後は西軍として「関ケ原の戦い」に、豊臣方として「大阪の陣」に参陣します。
特に、慶長20年(1615年)「大阪夏の陣」では後世、「真田幸村」に勝るとも劣らないと評されるほどの活躍を果たしました。
そして、同年5月8日、大阪城にて「豊臣秀頼」の介錯を行った後に自刃して果てます。
享年37歳でした。