脇坂泰治は、賤ヶ岳の戦いにおいて七本槍の一人と称された人物です。
戦が繰り広げられる乱世の時代を生き抜いた後、その晩年と最期はどのようなものだったのでしょうか。
脇坂安治とは?
脇坂安治は近江の生まれで、浅井長政に仕えていました。
浅井氏が滅亡すると、今度は明智光秀に仕えるようになります。
その後、自ら志願して豊臣秀吉の家臣となり、様々な戦で武功を立てました。
織田信長の死後、豊臣秀吉が柴田勝家と覇権を争った賤ヶ岳の戦いでも目覚ましい活躍を見せています。
加藤清正や福島正則たちと共に賤ケ岳七本槍と呼ばれました。
数々の手柄を挙げたため、秀吉から淡路洲本に3万石を与えられます。
脇坂安治の晩年
豊臣秀吉の死後、豊臣方と徳川方が西軍・東軍に分かれて天下を争った関ヶ原の戦いでは、脇坂安治は嫡子の安元と共に西軍に組します。
しかし、決戦の際には徳川家康率いる東軍に寝返りました。
この戦いで東軍が勝利したため、脇坂安治は処分を受けることなく所領を安堵されます。
元々、安治は東軍に組したかったのですが、石田三成に素阻止されたため仕方なく西軍に加わったという事情もありました。
そして慶長14年には、加増移封され伊予大洲藩5万石となっています。
慶長19年に起きた大阪の陣には参戦しませんでしたが、嫡子である脇坂安元が参戦し戦功を挙げています。
玄和元年には安元に家督を譲り、隠居しました。
脇坂安治の最期
脇坂安治は隠居すると、伊予大洲を出て京都に赴きます。
京都の西洞院に住み、剃髪して臨松院と号したといわれています。
そして寛永3年に亡くなりました。
享年は73で、当時の寿命を考えると長生きしたと言えるでしょう。
関ヶ原の戦いで始めは西軍に組していながら東軍に寝返った武将は他にもいますが、所領を没収されてしまった人もいます。
それに対して脇坂家は所領を安堵され、脇坂家は幕末まで譜代大名として続きました。
脇坂安治も後を継いだ嫡子の安元が武功を挙げるなど、安心して余生を送ったことと考えられます。
脇坂安治をめぐる逸話
脇坂安治は豊臣秀吉に仕えていた頃、文禄の役・慶長の役といった2度の朝鮮出兵にも参加しています。
水軍として参戦し、朝鮮水軍を壊滅させるといった武功を挙げたこともあります。
朝鮮における一連の功績が評価されたため、3000石の加増も受けています。
この朝鮮出兵で戦った朝鮮の武将は李舜臣というのですが、2000年代に韓国で李舜臣をモデルにしたドラマが制作されています。
脇坂安治は李舜臣の最大の敵として登場しました。
日本水軍最高の名将として扱われているのです。
まさか遠い未来に韓国で自分のことが取り上げられるとは本人も思っていなかったことでしょう。
まとめ
脇坂安治は、明智光秀・豊臣秀吉・徳川家康と主人を変えながら戦国時代を生き抜きました。
徳川の時代になると隠居して、京都で穏やかに晩年を過ごします。
脇坂家は譜代大名として幕末まで続きました。