「孝明天皇(こうめいてんのう)」とは?
孝明天皇の死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「孝明天皇」とは?簡単に説明
孝明天皇は第121代天皇で、1831年(天保2年)6月14日に第120代天皇の仁孝天皇の第四皇子として誕生しています。
1846年の仁孝天皇の崩御後、孝明天皇は15歳で第121代天皇に即位します。
この頃、日本近海には黒船が出没し、日本を挑発していましたが、孝明天皇は異人嫌いが有名で、開国に反対し攘夷の姿勢を示していました。
「孝明天皇」の死に様
孝明天皇は1867年1月30日(慶応2年12月25日)午後11時過ぎに35歳(宝算37歳)で崩御されています。
孝明天皇は1867年1月16日に風邪をこじらせて発熱します。
しかしその後回復しないまま、孝明天皇は医師の制止も聞かずに神事を行ないます。
そのため医師15名による24時間つきっきりの治療体制が組まれます。
また1月22日になって、孝明天皇の病気が天然痘(疱瘡)であると公表されます。
29日には回復の兆しが見えますが、翌30日には急変し血便を何度も漏らして苦しみながら崩御されたのでした。
死因は天然痘と考えられていますが、世間では暗殺説も囁かれます。
「孝明天皇」の死に様の信憑性
孝明天皇は生前、非常に壮健で脱肛以外の持病はなく、全身状態が回復しつつあった中での急死のため周囲の人々の疑惑を助長することになります。
そのため、毒殺の噂は絶えませんでした。
毒殺説を主張する研究者は多数いましたが、原口清(元・名城大学教授)による孝明天皇の死因の見解は悪質な紫斑性疱瘡または出血性膿疱性疱瘡であり天然痘による病死であることを主張して現在、病死説が優勢のようです。
「孝明天皇」の小ネタ等
ここでは暗殺説について記載します。
その中でも必ず黒幕として名前の挙がるのが岩倉具視です。
伊藤博文も同様に名前があがることがありましたが、当時の伊藤にとって孝明天皇は雲の上の人で近づけない上、あまりにも恐れ多すぎて下っ端の伊藤には考えもつかなかったでしょう。
その点、朝廷内で何か工作ができるとすると岩倉具視が頭に浮かびます。
しかし、その岩倉も孝明天皇が亡くなったときは謹慎中で、簡単に近づけません。
暗殺を実行するためには宮中に仲間(女官として天皇の傍にいた岩倉の妹・堀河紀子が想定されています)がいて岩倉の指示でその仲間が孝明天皇の食事にヒ素を盛ったというのが代表的な暗殺説(毒殺説)です。
この説も現実的には無理がありそうですが、イギリス外交官として活躍したアーネスト・サトウがその著書の中で孝明天皇が毒殺されたという証言があることを記載していますので、100%暗殺ではないとも言い切れないところが未だに謎になっている要因かも知れません。
まとめ
現実的には病死説がやはり合っているような気がしますが、こればっかりは信頼できる一次史料が新たに見つからない限り、決着は着きそうにありません。