「沖田総司」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「沖田総司」の死に際とは?日本の人物

天才剣士「沖田 総司」の晩年とは? この記事では、「沖田総司」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「沖田総司」とは?簡単に説明

日本の歴史上で一番の剣士は誰かと問われた時、多くの人が名前を挙げるのが沖田総司でしょう。

“薄幸の天才で美男子”源義経と共通する悲劇性を持った日本人受けする人物でもあります。

義経同様に作られたイメージが独り歩きして現代に至りますが、沖田の剣の腕前は凄まじく、新撰組内随一。

師匠の近藤勇よりも上と評価され、新撰組と敵対していた側から見ても確かな腕前があり、飄々と人を容易く殺すと恐れられているほどでした。



「沖田総司」の晩年

新選組の一番隊組長を務めていた沖田でしたが、1965年には兄の様に慕っていた山南敬助を自らの手で捕らえ、彼の希望で切腹の介錯を務めます。

この頃は大津まで山南を追いかけるほどの体力があった沖田ですが徐々に病魔、労咳が徐々に身体を蝕みはじめていました。

1867年秋にはその兆候が形となって見られるようになっていきます。

その後の鳥羽伏見の合戦では体調の悪化で大坂城にに赴きながら、重傷の近藤勇とともに療養を余儀なくされました。

2月末に徳川慶喜が甲州方面の脱走兵の鎮撫を近藤勇に命じると沖田もそれに参加しますが、志半ばで病気のために離脱。

以降は将軍侍医も務めた松本良順による紹介で植木屋宅で匿われ闘病生活を送るのでした。



「沖田総司」の死に様

近藤勇が屋敷を訪れてから半年近くが経過して時は既に夏を迎えていました。

症状が悪化していた沖田は師である近藤からの連絡が途絶えたことで、その安否を気にしつつその日を迎えることとなりました。

1868年7月19日、享年24、25、27(いずれか諸説あり)死因は21世紀現在でも日本で1万8千人が罹患する結核によるものでした。

「沖田総司」の死に様の信憑性

沖田総司が労咳、結核で亡くなったのは事実ですが、罹患した時期にやや信憑性の残る部分があります。

沖田が労咳にかかり、池田屋事件の際に喀血したのは亡くなる4年前の出来事で、これが定着しています。

喀血するほど肺が結核菌に冒されていたにも関わらず、治療法が確立していなかった時代に生き長らえていたのは不自然だと言っていいでしょう。

明治末期の永倉新八の『新選組顛末記』で池田屋事件で沖田が昏倒した記述は確かにありますが、喀血したとは書かれていません。

この後の新撰組関連の書物で喀血が付け加えられていくことになったため、沖田の闘病に関しては整理が必要でしょう。

実際に症状が悪化したのは亡くなる前の10ヶ月程度、1867年の秋からのはずです。

この時期に複数の文書かつ複数の人物が沖田が大病を患った所為と体調を心配しているのを確認することができます。

現在の新撰組のイメージの大半は子母澤寛の『新選組始末記』による部分が大きく、確かに第一次史料として貴重なものではありました。

幕末から50年以上経過した状況で関係者から情報を集めたものをまとめているため、記憶の風化の問題があるため、一概に信憑性が高いとは言えません。

「結核で亡くなったのは事実、しかし池田屋事件での喀血はなく、亡くなる前年に罹患、悪化した」が一番信憑性が高いように思われます。

まとめ

沖田総司の死因は肺結核で1868年7月19日に亡くなっています。

ただし定着している池田屋での喀血は事実ではありません。

諸説は多々ありますが、1867年の秋口には周囲の人間が心配するほどの結核の症状が出ていたのは確実と言えるでしょう。

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