祟りに振り回された?
「桓武天皇」の晩年とは?
この記事では「桓武天皇」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「桓武天皇」とは?簡単に説明
現代風に言えば“失われた100年”を取り戻すために尽力した人物です。
天武天皇以降の100年間で失った天皇の権力を取り戻すために采配を奮います。
渡来人の母を持つため、立太子は予想外の出来事で大学頭や侍従を務めました。
実務を経験し、壮年期の44歳で即位したことで親政君主として存分に力を行使。
坂上田村麻呂による蝦夷征討で東北平定を完了させました。
2度の遷都行いますが、表面上の理由とは別に裏にはとある事情があったのです。
「桓武天皇」の晩年
親政を実施、蝦夷征討もほぼ完了し仕上げとばかり立て続けに兵を送り、備えの城である志波城を築城。
また南都の宗教論争を終息させ、新しい秩序を作るべく最澄自らに入唐を指示、その際には破格の資金を持たせたと伝えられます。
国務に関しては滞りなく、やり遂げた晩年だったと言えるでしょう。
しかし晩年、桓武天皇の心を苛んでいたのは早良親王の祟り、そして息子である安殿親王との不仲でした。
祟りを恐れて800年には崇道天皇と追称し、さらに淡路に使いを出して謝罪、墓守を設置、なおも恐れは止まず、804年の春には奈良県八島町に遺骸を移しています。
また安殿親王との仲もよろしくなく、805年に桓武天皇が床に臥し、重篤な状況から回復したにも関わらず、自発的に見舞いには訪れずと死期が迫っても関係は改善されることはありませんでした。
「桓武天皇」の死に様
崇道天皇の鎮魂儀式のあとに突然体調を崩されたともありますが、実際は前年に既に重篤な状態で床に臥せっていた記述があります。
一時的に回復したとありますので前年から体調は相当悪かったと想像がつきます。
「桓武天皇」の死に様の信憑性
早良親王の供養後に突然崩御したと言われていますが、単なる偶然と言ってよく信憑性のある史料はありません。
805年に桓武天皇が体調を崩し、重篤な状態に陥った件に関しては『日本後紀』の記載で信憑性は高いでしょう。
亡くなる3ヶ月前に一時的に回復したおりに藤原緒嗣の意見を取り入れて、民の負担となる蝦夷征討と平安京の造営の中止の指示が出されています。
緒嗣の意見に悉く反論したとの記述がありますので、806年初頭には体調は悪くなく、論争ができるほどには元気だったはずです。
「桓武天皇」の恐れた祟りを考察
祟りの真実はわかりません。
ただし女宮に変死が続いたのは平安時代に使われはじめた白粉が原因の可能性もあるでしょう。
また疱瘡に罹患した記載はありませんが、謎の病死が相次いだ790年は有史以来三度目の天然痘のパンデミックが発生。
790年秋~冬にかけて京都・畿内の30歳以下の男女のほとんどが罹患したと『続日本紀』には記載されています。
また京都はマラリア、フィラリアこの時代は土着、季節を問わずに感染の危険性もあったと思われます。
788~791年に偶然これらの要素が重なり、死亡者が続いたのが祟りの真実ではないでしょうか?
まとめ
桓武天皇は早良親王の祟りに怯えた晩年を過ごしたのは間違いないでしょう。
親政で精力的に動いた生涯でしたが、晩年には生涯の事業であった蝦夷征討と平安京の造営も放棄します。
藤原緒嗣の諫言があったものの、その裏にも祟りの影響があったと思えるのは穿った見方でしょうか。