天に愛された男「藤原道長」は晩年不遇だった?
この記事では「藤原道長」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「藤原道長」とは?簡単に説明
藤原道長は摂関政治を活用し、藤原氏の黄金時代を築きました。
平安時代にもっとも権勢を誇った人物の一人でといえるでしょう。
実力もさることながら父の没後、兄弟が早逝、ライバルが不祥事でたか転びするなど天運も味方につけています。
また光源氏のモデルの1人としても候補に上がっており、実際に紫式部との関係は深く娘・彰子の指南役を依頼した他、パトロンとして支援していたと言われています。
「藤原道長」の晩年
順風満帆でこの世を謳歌していた道長ですが、50歳を過ぎた頃から様々な体調不良に悩まされるようになってきます。
突然の胸の痛みに苦しみ、目が霞むようになってきたと言われます。
1019年に出家して法成寺の建立に着手しますが、さらなる不幸が襲いかかるのでした。
道長の周囲に訃報が続き、1025年には寛子と嬉子、続いて1027年には顕信と妍子を亡くしています。
「藤原道長」の死に様
晩年の道長は病気がちで、没年には顕信と妍子を亡くしており、心身ともに疲弊していました。
1027年10月28日に法成寺で妍子の四十九日法要が行われましたが、当日の夜から臥せてしまいます。
11月半ばには酷い下痢が続いて自力では排泄もできなくなり、衰弱が進んだため25日には阿弥陀堂に移ります。
病状が相当悪化しており、既にこの時点で死相を感じられたとも。
12月2日の夜には医師の但波忠明が呼ばれ、女性の乳房ほどの腫れ物に針を差しますが、中身はほとんど出てきませんでした。
ほどなくして3日には重体に陥り意識もなくしてしまいます。
4日には屏風を開け北枕にし、9体の阿弥陀仏の手を蓮の糸で作った組紐で繋ぎ、中尊仏から道長の手へ渡され、周囲で読経が行われるなか息を引き取りました。
死後硬直なのか道長が動いたことで周囲が蘇生したと希望を持つも朝4時頃には亡くなった事が確認され享年62でした。
「藤原道長」の死に様の信憑性
道長の記した『御堂関白記』、そして晩年の道長と良く会う機会の多かった藤原実資の『小右記』は信憑性が高いと言われています。
とくに小右記に関しては出家した道長の法成寺での生活ぶりについて記載されています。
亡くなるまでの詳細も小右記が出典であり、信憑性も高いと言えるでしょう。
まとめ
道長は栄華の絶頂の末、贅沢三昧で糖尿病に罹患したと言われていますが、先天的に腎臓障害があったと近年の研究では言われています。
道長は蘇の蜂蜜がけが好物で薬代わりに食し、それが糖尿の原因とも言われてきましたが、逆に藤原一族の長寿に貢献したと評価されてもいます。
道長、そして道長の周囲が呪われたと紐付けられるエピソードが実在。
三条天皇が失明した時に道長が譲位を執拗にせまり、譲位させられた後すぐ亡くなってしまった、そのため祟られて失明してしまった。
この話は代表的な事例で道長本人も信じて大がかりな祈祷を行っています。
道長が栄華を極めた裏で失脚、譲位など不遇を託った人も相当数おり、本人も恨みをかっているのを理解しているのが興味深いところでしょう。
これが晩年に末法思想に漬かった理由だとされています。