「赤座直保」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「赤座直保」の死に際とは?日本の人物

赤座直保は戦国武将の一人で、織田信長や豊臣秀吉の家臣でした。

関ヶ原の戦いで寝返ったことで知られていますが、その晩年と最期を紹介します。

赤座直保とは?

赤座直保は、朝倉義景の家臣であった赤座直則の子として誕生します。

織田信長によって朝倉氏が滅亡すると、信長に仕えるようになりました。

天保10年に本能寺の変が起こり、信長は明智光秀によって自害に追い込まれます。

この時、父である直則も失いました。

それにより家督を継いだ直保は、豊臣秀吉の家臣となります。

秀吉の死後、天下分け目の合戦と呼ばれた関ヶ原の戦いでは西軍に属して戦いますが、後から東軍に寝返ります。

しかし、徳川家康にはその功績を認められず、所領は没収されてしまいました。



赤座直保の晩年

関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返った人物として有名なのは小早川秀秋で、小早川秀秋が離反したことで次々と西軍側の武将達が東軍に寝返りました。

赤座直保のその一人です。

一緒に寝返った武将には脇坂安治や朽木元綱、小川祐忠がいました。

東軍の勝利に貢献しましたが、事前に伝えていなかったという理由で家康はその功績を認めませんでした。

所領は没収となり、浪人生活を余儀なくされた直保は京都へ向かいますが、前田利長の家臣に誘われ加賀に赴きました。

松任城代として、城の管理を任されます。



赤座直保の最期

赤座直保は、松任城代として7千石を知行していました。

慶長8年には、主君である前田利長の命令で棟岳寺の移転にも関わっています。

棟岳寺は直保の先祖である赤座景秋が建立した寺院です。

そして慶長11年、越中国大門川が氾濫したためその検分を行っていました。

その際、濁流となっている川を馬に乗って渡ろうとしたら、落馬して命を落としてしまいます。

赤座直保の死因

赤座直保の死因は、川で落馬したことによる溺死といわれています。

氾濫した川は増水しており、濁流だったというので、馬で渡るのはとても危険だったのでしょう。

赤座直保を巡る逸話

関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返った武将は何人かいますが、全員が功績を認められずに所領を没収されたわけではありません。

直保と同様の行動をとった脇坂安治は、事前に徳川方に味方することを伝えていたため所領は安堵されています。

朽木元綱もはっきりとは分かりませんが事前に内通していたとみられ、所領を全て没収されることはありませんでした。

小川祐忠は赤座直保と同様、所領を没収されています。

寝返ったことは同じでも、それぞれの運命は全く違うものになりました。

まとめ

赤座直保は、織田信長・豊臣秀吉といった時の天下人の家臣として多くの戦いに参加しました。

直保の運命を大きく変えたのは関ヶ原の戦いです。

西軍から東軍に寝返ったのですがその功績は認められず、領地を没収され浪人となります。

その後、加賀の前田利長の家臣となりますが、氾濫した川の検分をする際に落馬して溺死するという数奇な最期を遂げました。

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