「福田和子」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「福田和子」の死に際とは?日本の人物

「福田和子(ふくだかずこ)」とは?

福田和子の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。

「福田和子」とは?簡単に説明

福田和子とは、1982年8月19日に発生した、いわゆる「松山ホステス殺害事件」での強盗殺人犯です。

福田は犯行後、犯行を打ち明けた夫に自首を勧められますがこれを拒否し、逃亡することになります。

その後、福田は全国指名手配されますが、整形手術を受けて人相を変え、金沢、名古屋、福井など潜伏先を転々としながら逃亡生活を続けます。

しかし、1997年7月29日の公訴時効まであと1ヶ月と迫ったところ、福井市に潜伏しているとの情報を受け、ついに時効成立21日前に逮捕される事件です。



「福田和子」の晩年

福田が同僚のホステス殺害に及んだのが34歳の時で、それから57歳で亡くなるまでの23年間は逃亡生活と逮捕後の裁判や収監期間ということになり、人生の40%をこの犯行の後始末に費やすという悲しい晩年です。

特に逃亡生活を余儀なくされていた15年間という日々は気の休まることはほとんど無く、見えない警察の追跡に怯える毎日だったと本人も回想しています。

しかし、福田は17歳の時に強盗を働いて服役していた刑務所で看守による強姦被害を受けた過去があったことから、警察に逮捕されることを極度に恐れ、その恐怖が決死の逃亡の原動力に繋がったようです。

一方、警察も情報提供者に100万円の懸賞金をかけるなど、福田と必死の攻防を繰り広げたため、ワイドショーでも大々的に報道されることになり、次第に福田は追い詰められていきます。

ただし、逃亡中の福田にとって幸せなひとときもありました。

それは金沢に潜伏していたときに知り合った和菓子屋の主人と同棲するようになり、長男を松山市の実家から連れ出して甥と偽って和菓子屋に見習いとして住み込ませた時期がそれにあたります。



「福田和子」の死に様

福井市で逮捕され、15年ぶりに松山市に身柄を送致された福田は、1997年8月18日に殺人罪で起訴されます。

1999年に松山地方裁判所で無期懲役の判決が下され、控訴するも2000年12月13日に高松高等裁判所で控訴棄却されます。

福田は最高裁判所に上告しますが、2003年11月に上告棄却され、最高裁で無期懲役が確定し、和歌山刑務所に収監されます。

それから1年4ヶ月後の2005年2月、収監されていた和歌山刑務所内の工場で作業中にくも膜下出血を発症し緊急入院します。

しかし、意識が回復することなく、3月10日、入院先の和歌山市内の病院で脳梗塞により57歳で死去します。

「福田和子」の死に様の信憑性

病院に入院中の病死であることから、死に様の信憑性は高いと言えます。

遺骨は金沢の和菓子屋で福田と一緒に暮らしていた長男が引き取ったとのことです。

まとめ

この事件は15年近く逃亡生活を続け、時効成立21日前に逮捕されるということで大きな話題になった事件です。

さらに逮捕後も福田は殺人罪を否認し、すでに死亡していた人物を主犯だと主張します。

この自白が嘘であることを残り21日間で立証しないと時効が成立することになるのですが、奇跡的にこの人物のアリバイが立証でき、福田を強盗殺人罪で起訴できたとのことです。

なんと時効成立の11時間前だったらしく、まさにギリギリだったようです。

タイトルとURLをコピーしました