「池田恒興」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「池田恒興」の死に際とは?日本の人物

戦国武将の「池田恒興」とは、どのような歴史上の人物なのでしょうか?

「池田恒興」のおおまかな人生のあらましを簡単に解説して、その晩年・死に様について詳しく紹介していきます。

「池田恒興」とは?簡単に説明

「池田恒興(いけだつねおき,1536年~1584年)」とは、幼少期から小姓として織田家に仕えていて、織田信長から絶大な信頼を得ていた有力武将の一人です。

恒興の母の養徳院(ようとくいん)は信長の乳母でもあり、恒興と信長は乳兄弟の深い間柄でした。

信長が奇襲で今川義元を討ち取る「桶狭間の戦い」に参加、美濃のまむしと言われた斎藤道三・龍興の攻略にも関与しました。

浅井長政・朝倉義景の連合軍を敗る「姉川の戦い(1570年)」で軍功を上げた恒興は、犬山城を与えられました。

本能寺の変で信長が謀殺された後の「清洲会議」では、柴田勝家らに対抗する羽柴秀吉・丹羽長秀らに味方して、織田家の内紛を見事に生き残りました。



「池田恒興」の晩年

「池田恒興」はポスト信長の体制を決める「清洲会議(1582年7月16日)」の話し合いによって、摂津国のうちの大坂・尼崎と兵庫の12万石の領地を配分されています。

織田家を二分した羽柴秀吉と柴田勝家の対立では、恒興は三法師(織田秀信)を担いだ秀吉の勢力に加わることを決めました。

秀吉が勝家を打ち破る「賤ヶ岳の戦い」にこそ池田恒興は参加しませんでしたが、常に秀吉方に従う姿勢を見せたため、戦後に美濃国で13万石を与えられて大垣城城主になりました。

「天下人・全国統一」への道を着実に前進していく勝ち馬の羽柴秀吉に乗って、池田恒興の生涯は順風満帆に見えていました。

しかし、恒興の命運は、秀吉が徳川家康・織田信雄の連合軍と戦った「小牧・長久手の戦い(1584年)」で分かれることになります。



「池田恒興」の死に様

羽柴秀吉は信長の死後、形式的に三法師を主君としてはいたものの、柴田勝家を破って事実上の後継者となりました。

天正11年(1583年)、織田信雄は秀吉によって安土城から退去を命じられますが、信長の次男である信雄は自分を家臣のように扱う秀吉に強い不満を持っていました。

天正12年(1584年)、信雄が秀吉シンパの三家老を殺したことで、「小牧・長久手の戦い」が開戦します。

羽柴秀吉の勢力と織田信雄・徳川家康の連合軍が戦いましたが、池田恒興は信雄を裏切って犬山城を占拠して秀吉に味方しました。

池田恒興・森長可(もりながよし)の軍勢は「羽黒の戦い」で敗れて、「長久手の戦い」で雪辱を晴らそうとしますが、森長可が鉄砲で撃たれて戦死、池田恒興も永井直勝(ながいなおかつ)の槍に刺されて戦死しました。

この際に、嫡男の池田元助も討たれたため、家督は次男の池田輝政が継ぎました。

「池田恒興」の死に様の信憑性

「池田恒興」「小牧・長久手の戦い」において、永井直勝の槍で討ち取られたことは史実であり、嫡男の元助らも一緒に討たれていて、その信憑性は高いと言えます。

文禄3年(1594年)、池田輝政が家康の次女・督姫と結婚した時に、永井直勝から「父の恒興を長久手の戦いで討った時の話」を直接聞いていることからも、死に様の信憑性はあります。

まとめ

「池田恒興」の大まかな人生の流れと晩年・死に様について分かりやすく解説しましたがいかがでしたか?

「池田恒興」「小牧・長久手の戦い」で劣勢に追い込まれて、敵方の武将・永井直勝に槍で突き刺されて戦死しました。

「池田恒興」の死に様について詳しく知りたいときは、この記事の解説を参考にしてみてください。

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