乃木希典は明治を代表する陸軍軍人で、明治天皇の後を追って殉死したことでも知られています。
その晩年と最期について紹介します。
乃木希典とは?
乃木希典は、長州藩士だった乃木希次の三男として生まれます。
萩藩の藩校である明倫館で学びました。
江戸幕府による長州征伐の際には、長州藩士で組織された報国隊に加わっています。
この時は山県有朋の指揮下で戦いました。
明治4年に陸軍の少佐として任官され、秋月の乱や西南戦争にも従軍します。
日清戦争では歩兵第一旅団長を務め、台湾総督を務めたこともあります。
日露戦争では第三軍司令官となり、旅順を攻略するなど功績を残しました。
乃木希典の晩年
日露戦争の勝利によって、乃木希典は日本の国民的な英雄となりました。
旅順の攻略は日露戦争の中でも最も激戦であったため、世界的にも乃木は名声を高めました。
乃木自身もこの戦いにおいて、二人の息子を失っています。
また、乃木は降伏したロシア兵にも寛大な処置をしており、その行動も世界から称賛されました。
しかし、本人は多くの兵を死なせてしまったことに責任を感じていたといいます。
明治天皇に対して、多くの将兵を失った責任をとって自刃したいと申し出ています。
明治天皇は乃木に、今は死ぬべき時ではないと諭したと言われています。
どうしても死にたいというのなら、自分が死んだ後にしなさいという言葉もかけています。
その後、乃木は明治天皇の意向もあり、学習院院長に就任しました。
これは後の昭和天皇となる裕仁親王が学習院に入学するためで、その養育を乃木に任せたいという思いがあったからとされます。
学習院は乃木の元で全寮制となり、乃木自身も生徒と共に寄宿舎で過ごしました。
勤勉と質素を教育方針に掲げ、生徒にも親しげに声をかけたり冗談を言ったりすることもあったといいます。
乃木希典の最期
1912年の7月に、明治天皇が崩御しました。
その3か月後、明治天皇の大喪の礼が行われた日、乃木希典は夫人と共に自刃しています。
享年64でした。
遺言や辞世を残しており、覚悟の死であったことが分かります。
乃木希典の死に関して
乃木希典が明治天皇を慕って殉死したニュースは、世間に衝撃をもって伝えられました。
ニューヨーク・タイムズにも乃木が詠んだ漢詩が掲載されたといいます。
日本各地で乃木を祀った乃木神社が建立されました。
ただし、国民の中には乃木の殉死を前近代的行為として批判する者もいました。
志賀直哉や芥川龍之介などです。
なぜ殉死を選んだのか?
なぜ乃木希典が殉死という道を選んだのかは分かりませんが、日露戦争後に大きな罪悪感に苛まされていたことは間違いないようです。
時間があれば戦死者の遺族を訪ね、謝罪していたといいます。
その悔恨の気持ちが殉死という道を選ばせたのかもしれません。
まとめ
乃木希典は日露戦争で旅順を攻略するという功績を残しましたが、多くの将兵を失ったことを生涯後悔していました。
そして、明治天皇の大喪の礼の際に、殉死しました。