自らの命で惨劇を回避「清水宗治」の晩年とは?
この記事では清水宗治の死に際、そして晩年について解説していきます。
「清水宗治」とは?簡単に説明
もともとは三村氏と主従関係にありましたが、天正二年の毛利軍の備中侵攻を機に毛利勢に与力したことで、備中高松城の城主を任されたと言われています。
小早川隆景の遠征に従軍し戦果を出し信頼を得ました。
知名度、武勇の評価とは相反し、三村家時代の戦歴はあまり伝わっていません。
「清水宗治」の晩年
備中高松城主として中国侵攻を企てる織田軍を迎え撃つことになりました。
境目七城(備中七城)体制で織田勢の侵攻に応対する戦略で最南にある松島城と最北の宮路山城を結ぶ中央が備中高松城であり、文字通りに扇の要の役目をはたします。
沼城の利点をいかし鉄砲隊や騎馬隊に対しての強みを強化していきました。
「清水宗治」の死に様
備中高松城はこの戦いで有名になりましたが、沼城特有の地形が天然の堀代わりになっていたため、秀吉勢も攻略には実際手こずっています。
毛利軍の後詰めが期待できるため、籠城は定石で5倍から6倍の戦力で備中高松城を囲った羽柴勢を二度打ち負かしていました。
これを機に羽柴勢は正攻法から黒田官兵衛の策とも言われる水攻めに切り替え、沼城の長所を逆手に取ります。
高額な報酬で地元民を動かし、普請1週間程度で堤防は完成。
天候にも恵まれ長雨が続き、備中高松城は完全に陸の孤島と化します。
城内にも浸水し船での移動を余儀されるなか補給路も絶たれ、宗治の脳裏に浮かんでくるのは鳥取城の惨劇。
毛利家4万の後詰めが到着するも救援はままならず、堤を破壊するには羽柴勢のど真ん中へ飛び込む必要があったからです。
安国寺恵瓊と黒田官兵衛を交渉役に立てた和議の条件の擦り合わせで難点となったのが宗治の処遇でした。
領土の割譲はともかく宗治の切腹だけは譲れないのが秀吉の条件。
毛利勢は救援は不可能なため、宗治に秀吉のもとに降ることを勧めます。
しかし宗治は城とともに果てることを望み、自らの命で城兵と毛利家が助かるならと自刃を決意。
本能寺の変により即急に和睦したい秀吉側は圧迫交渉により条件を変更するも毛利家はこれを受諾します。
宗治は秀吉から贈られた酒で宴を終えたのち白装束の姿で秀吉本陣へ移動、兄、弟、小早川家からの客将とともに小舟のうえで切腹を遂げたのでした。
1582年6月23日没、享年46。
「清水宗治」の死に様の信憑性
清水宗治の切腹は羽柴勢、毛利勢少なく見積り両軍合わせて4万人、多くて8万人が布陣しているなかで、水攻めでできた湖で行われたため、多くの人物が目撃しており信憑性は極めて高いはずです。
宗治の切腹の原因となった水攻めと堤防に関しては各史料で相違があり、近年では『吉川家文書』に書かれた300m程度が史実だったと言われています。
これらから判断して、宗治の最期も吉川家文書ならびに宗治が度々従軍していた小早川隆景由来の『小早川家文書』の信憑性が高いと言えるでしょう。
まとめ
毛利家は補給路を絶たれており、宗治を救うためには急流の川を越えて、敵陣の真ん中に飛び込まなくてはいけないため救出は不可能でした。
毛利家にも早急に和睦をする必要がありましたが、信長の死を掴んでいれば以前の案よりも不利な条件を飲む必要がなかったと思われます。
毛利家がやむ無く受諾した宗治の自刃は避けられた可能性も高かったと言えるでしょう。