東郷平八郎は、日露戦争において日本を勝利に導いたとして圧倒的な人気を誇った海軍軍人です。
その晩年と最期を紹介します。
東郷平八郎とは?
東郷平八郎は薩摩藩の出身です。
薩摩藩士として薩英戦争で初陣を果たした後、薩摩藩の海軍に入りました。
戊辰戦争では春日丸に乗り、各地で旧幕府艦隊と戦います。
イギリス留学を経て、明治政府の元では海軍軍人として様々な海戦に参加しました。
東郷平八郎の名を一躍有名にしたのは、日露戦争です。
日露戦争で東郷は連合艦隊の司令官となり、ロシアのバルチック艦隊を壊滅させます。
これにより日本の勝利は決定的なものとなり、東郷の名声は高まりました。
東郷平八郎の晩年
日露戦争で国民的な英雄となった東郷平八郎は、海軍においてその後も存在感を示しました。
軍司令部長や東宮御学問所総裁といった役職を歴任します。
1913年には元帥になりました。
また、海軍軍人の中には、東郷の威光を利用した者も多くいました。
その典型例は、ロンドン軍縮問題です。
1930年に開催されたロンドン軍縮会議において、日本では条約締結を容認する派と反対派が対立しました。
ロンドン軍縮会議は、列強海軍の補助艦艇保有数を制限する目的で開催された国際会議です。
東郷は条約の締結には反対の立場でした。
反対派は東郷の名を前面に押し出したといいます。
また、東郷は晩年、家庭では質素倹約の生活を送っていました。
若い頃には料亭などに繰り出して遊ぶことが多かったのですが、晩年になるとそういったことはなくなり穏やかに過ごしています。
趣味である盆栽や碁を楽しむことはあったようです。
東郷平八郎の最期
東郷平八郎は、1934年に86歳で亡くなります。
咽頭がんや膀胱結石、神経痛、気管支炎などを患っており、それが悪化したためと言われています。
東郷の死は世界にも発信され、国葬が行われた際には各国の海軍の儀礼艦が訪れました。
東郷平八郎の死後
東郷平八郎が亡くなった後、東郷平八郎を祀る東郷神社が建立されました。
ただし、本人は生前神格化されることを望んでいなかったといいます。
東郷平八郎をめぐる逸話
東郷平八郎は、日本で初めてアメリカのタイム誌の表紙を飾った人物です。
タイム誌は世界のニュース雑誌として知られており、その表紙を飾るということは日露戦争の功績がいかに世界でも衝撃をもって迎えられたのかが分かります。
東郷平八郎は、東洋のネルソンと称されるようになります。
また、ロシアの圧力に苦しめられていたオスマン帝国においても、日露戦争の東郷の活躍は熱狂を呼び起こしました。
国民的な英雄として讃えられたのです。
まとめ
東郷平八郎は、日露戦争で大国ロシアのバルチック艦隊を破った国民的な英雄です。
その後も日本海軍で存在感を示しましたが、晩年は質素倹約の生活を送っていたといいます。
そして86歳で亡くなりました。
そのニュースは世界にも発信され、国葬によって送られています。