「本庄繁長」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「本庄繁長」の死に際とは?日本の人物

本庄繁長はまだ赤ん坊の頃に父を失い、叔父に裏切られるという波乱の人生を歩んだ戦国武将です。

その波乱万丈な生涯における晩年と最期はどのようなものだったのでしょうか。

本庄繁長とは?

本庄繁長は、越後に本庄房長の子として生まれます。

父は弟で繁長の叔父である小川長資に居城を奪われてしまいました。

13歳となった繁長は長資を捕らえて切腹させ、父の仇を討ちます。

それから上杉謙信の家臣となって数々の武功を挙げますが、武田信玄と通じて謙信と激戦を繰り広げました。

結局降伏することとなり、人質を差し出すことを条件に許されています。

その後は上杉氏に忠誠を誓い、謙信亡き後は跡を継いだ上杉景勝に仕えました。



本庄繁長の晩年

豊臣秀吉が天下をとった後、本庄繁長は秀吉によって大和に配流させられました。

奥羽で反豊臣派による一揆が起きたのですが、それを煽動したのが繁長とされたのです。

しかし、具体的な証拠などははなく、配流になった理由は明確にはなっていません。

ただし、秀吉が朝鮮出兵を行うと、繁長はそれに志願して秀吉から許しを得ることができました。

朝鮮出兵の文禄の役に参加し、再び上杉景勝の軍に戻ります。

その際には1万石を与えられました。

その後、上杉家が会津に転封となると、繁長は田村郡守山城代を任されます。

秀吉が没して関ヶ原の戦いが間近に迫ると、景勝の命令で繁長は福島城に移ります。

そして、大軍を率いた伊達政宗から福島城を守り抜くなど大きな働きを見せました。

上杉家では、徳川家康と講和するか戦い続けるか意見が大きく割れましたが、繁長は講和を主張します。

景勝は結局、繁長の意見を受け入れました。

繁長は徳川方との交渉に尽力し、所領は減らされたものの上杉家の存続に貢献したのです。



本庄繁長の最期

関ヶ原の戦い後、上杉家は米沢へと転封されます。

会津が130万石だったのに対して、米沢は30万石ですから大き減封されたことになります。

本庄繁長も1万1千石でしたが、3300石まで減らされています。

しかし、福島城代を務め、上杉家の重臣として重責を担い続けました。

そして、慶長18年に74歳で亡くなっています。

74歳という年齢を考えると、天寿を全うしたといえます。

本庄繁長にまつわる逸話

本庄繁長が亡くなると、上杉景勝は繁長の武勇を称えて武人八幡という称号を与えました。

繁長は上杉軍の中でも戦上手として知られ、少ない人数の兵でも巧みに動かしたといわれています。

それにより数々の軍功を残し、「上杉に鬼神あり」といわれる程でした。

そのためか幾度か反乱を起こしていますが、帰参を許されているのです。

まとめ

本庄繁長は上杉家に仕え、関ヶ原の戦いの頃には徳川方との交渉も任されました。

上杉家は大幅な減封となりますが、存続することを許されています。

上杉家の存続に大きく貢献したのが繁長でした。

福島城代を務め、福島城において74歳という天寿を全うしています。

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