「小早川隆景」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「小早川隆景」の死に際とは?日本の人物

小早川隆景は毛利氏の生まれで、父元就の教えを守り続けた生涯を送ります。

その晩年と最期はどのようなものだったのでしょうか。

小早川隆景とは?

小早川隆景は、中国地方を制覇した毛利元就の三男として誕生します。

父と同様に、知将と呼ばれるにふさわしい人物でした。

長兄が亡くなると、次兄である吉川元春と共に、毛利家の家督を継いだ甥の毛利輝元を支えました。

織田信長から命じられた豊臣秀吉が中国地方に侵攻してくると、和睦交渉を行い和睦を結びます。

豊臣政権下では秀吉から信頼され、五大老の一人にもなりました。

豊臣秀吉の甥である秀秋を小早川家の養子にも迎えています。

小早川隆景の晩年

豊臣秀吉が織田信長の死後に起こった柴田勝家との覇権争いに勝利すると、小早川隆景は秀吉に仕えるようになりました。

秀吉の四国征伐や九州征伐に参加し、様々な功績を残します。

朝鮮出兵と呼ばれる文禄の役では、すでに還暦に達していましたが出陣し、豊臣政権の重鎮として秀吉に重用されます。

文禄4年には、徳川家康や前田利家らと共に五大老に任じられました。

そして、養子である秀秋に家督を譲って隠居します。

小早川隆景の最期

小早川隆景は家督を譲って隠居すると、長年隆景に仕えてきた家臣だけを率いて三原に移ります。

その際には豊臣秀吉から5万石という破格の隠居領を受け取っています。

そして慶長2年に亡くなりました。

享年は65です。

死因についてははっきりしませんが、病によるものと考えられます。

自らの死期を悟っていたようで、甥である毛利輝元に遺言を残しています。

その遺言とは、天下が乱れても自分の領土を固く守って失わない謀をしなさいというものでした。

その死から数年後に関ヶ原の戦いが勃発するので、隆景は未来を予測していたのかもしれません。

小早川隆景をめぐる逸話

小早川隆景の晩年は、豊臣政権に忠義を尽くす一方で毛利家を支えることに徹していました。

秀吉の中国征伐に参加して功績をあげたことで伊予一国を与えられるのですが、隆景は一度毛利家に与えられた伊予を毛利家から与えられるという形をとりました。

秀吉が隆景を自らの家臣として扱おうとしているのに対して、隆景は毛利家の一員という立場を貫いたのです。

この時、小早川隆景は毛利氏を実質的に取り仕切っていました。

それから隆景が、毛利氏に尽くした逸話がもう一つあります。

豊臣家から養子を迎えるのですが、これは元々毛利輝元の養子にしてはどうかと打診があったものでした。

しかし、毛利宗家が乗っ取られることを恐れ、家臣達の間には反対の声が大きくありました。

だからといって断ってしまうと豊臣秀吉の面目をつぶすことになるので、隆景が自ら小早川家の養子に欲しいと申し出て面目を守ったのです。

まとめ

小早川隆景は隠居すると、65歳で静かに息を引き取りました。

亡くなる際には、甥の輝元に対して天下が乱れても自国の領土を守る謀をするようにという言葉を残しています。

毛利家の中心として支え続けた一生でした。

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