徳川慶喜は、260年続いた江戸幕府の最後の将軍として知られています。
幕末から明治へと移り変わる激動の時代において非常に重要な役割を担った人物ですが、その晩年と最期は政治とは縁のない穏やかなものでした。
徳川慶喜とは?
徳川慶喜は、江戸幕府の第15代将軍です。
水戸藩主である徳川斉昭の七男として生まれました。
政権を朝廷に返上する大政奉還を行った人物として有名です。
明治政府を樹立した新政府軍と旧幕府軍が争った戊辰戦争の初戦となる鳥羽・伏見の戦いに敗れ、江戸開城に伴って水戸・静岡へ移ることになります。
新政府の命令により、徳川宗家の家督は徳川家定に譲ることになりました。
徳川慶喜の晩年
江戸幕府が終焉を迎え、徳川慶喜が静岡に謹慎することになったのは32歳の時でした。
それ以降は趣味の世界に没頭し、政治とはほとんど縁のない生活を送ります。
正妻の美賀子とも静岡で同居するようになりました。
慶喜が没頭した趣味を挙げると、狩猟や鷹狩り、鵜飼、投網、囲碁、将棋、謡曲、能、洋画、写真など非常に多彩です。
西洋文化にも興味があり、新しい物が大好きだったといわれています。
蓄音機でレコードの音楽を聴いたり、アイスクリームを作る機械で自家製のアイスクリームを作ったという記録もあります。
当時はまだ珍しかった自転車を早くに手にし、楽しんで乗り回していたという逸話も残されています。
また、自らカメラを使って行う写真撮影も趣味としており、様々な被写体を写真に収めています。
写真愛好家によって発行されていた雑誌に、自分が撮影した写真を投稿してもいました。
写真撮影は、晩年になっても熱心に続けていたといいます。
徳川慶喜の最期
長く静岡で過ごした徳川慶喜でしたが、明治30年に東京の巣鴨に移住しています。
健康に不安を感じるようになったため、腕の良い医者が揃う東京の方が安心できると考えたようです。
また、子供達が大きくなって静岡を離れたこともその理由の1つとされます。
東京に移住した後は公爵に叙任され貴族院議員を務めたこともありましたが、明治43年に隠居し息子の慶久に家督を譲って隠居します。
そして大正2年、急性肺炎によって亡くなります。
享年77でした。
徳川慶喜の死因
徳川慶喜の死因は、風邪を引いたことで肺炎を併発したためと言われています。
親しみやすい人柄で慕われていたので、葬儀の際には多くの人が駆け付けたとされます。
徳川慶喜をめぐる逸話
徳川慶喜は、静岡で10男11女という子宝に恵まれています。
生んだのは2人の側室です。
ただし、早世する子が多かったため、丈夫に育ってほしいとの思いから子供が生まれると庶民の家に里子に出すようになりました。
これは身分の高い人にとっては異例のことです。
無事に育ってほしいという親心だったのでしょう。
まとめ
徳川慶喜の晩年は、政治とは縁のない趣味の世界に没頭する時間でした。
風邪を引いたことで肺炎を発症し、77歳で亡くなっています。