「小川祐忠」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「小川祐忠」の死に際とは?日本の人物

幾度も主君を鞍替えし戦国時代を渡り歩いた「小川祐忠」ですが、どのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「小川祐忠」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「小川祐忠(おがわ すけただ)」とは?簡単に説明

「小川祐忠」は戦国武将、並びに戦国大名だった人物です。

「佐和山城」の城主として「六角氏」に仕えていましたが、後に「六角氏」の敵対勢力であった「浅井氏」に臣従します。

その後も幾度に渡って主家を鞍替えしています。

「浅井氏」「織田氏」に攻められた際には、降伏した後、「織田信長」へ臣従。

「本能寺の変」後は「明智光秀」に従うも、後に「羽柴秀吉」に降伏。

・一旦「柴田勝家」の甥「勝豊」の家老となるが、「賤ケ岳の戦い」の際、「勝豊」の寝返りに乗じて「秀吉」に臣従。

その後は豊臣家臣として功を挙げていきます。



「小川祐忠」の晩年と最期

文禄4年(1595年)に伊予国(現在の愛媛県)今治7万石に封じられ、慶長3年(1598年)には国分城の城主となりました。

また、「秀吉」が催した「醍醐の花見」では茶室内の襖絵を「狩野山楽(かのう さんらく)」「長谷川宗仁(はせがわ そうにん)」をはじめとする有名な絵師に描かせたと伝えられています。

「秀吉」の死後、慶長5年(1600年)に「関ケ原の戦い」が勃発すると「小川祐忠」は西軍として参加しました。

ところが、関ケ原本戦にて「小早川秀秋」の東軍寝返りをきっかけに、「脇坂安治」「朽木元網」「赤座直保」と共に「小川祐忠」も西軍を裏切ります。

西軍離反後、「大谷吉継」軍を急襲した後、家臣が武名名高い「平塚為広」を討ち取るなど戦功を挙げました。

さらに「関ケ原の戦い」後は、「石田三成」の居城であり、かつて小川家の居城だった「佐和山城」を攻め落とします。

「徳川家康」のために貢献するも、徳川家臣「藤堂高虎」と取り付けていた寝返りに対する恩賞は与えられず、逆に「改易」(所領などを没収される刑罰)されてしまいました。

改易後は京都に上洛、隠棲した後の慶長6年(1601年)に享年52歳で死去したとされています。



「小川祐忠」の死に様の信憑性

「武徳安民記」には「近比病死ス」と記録されていますが、死因は定かではありません。

また、近江国(現在の滋賀県)高島郡で死去し、そこにかつて墓地があったともされています。

改易は裏切りのツケ?

武功を上げたにもかかわらず、「小川祐忠」が改易に処された理由は主に以下が挙げられています。

・土壇場で寝返ったため(もともと内通していた脇坂安治は処罰なし)
「石田三成」と懇意にしていたため
「小川祐忠」が悪政を行っていたため
度重なる寝返りを「家康」が嫌ったとも。

まとめ

「小川祐忠」は戦国武将、並びに戦国大名だった人物です。

幾度か主君を鞍替えした後、「豊臣秀吉」により伊予国に封じられ、大名となりました。

「秀吉」の死後、西軍として「関ケ原の戦い」へ参陣しますが、本戦中に東軍へ寝返ります。

戦後は改易を受け、慶長6年(1601年)に享年52歳で死去しました。

死因については不詳となっています。

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